植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立(8)(2004)
8 唱歌
『富士山』は小学校唱歌の一つである。唱歌というものの成立にも伊沢修二が深く関係している。1879年(明治12年)、伊沢は、自らの提言によって設立された音楽取調掛(現東京芸術大学音楽学部)の掛長となり、恩師のメーソンを招いて、近代日本における洋楽の主流化=雅楽の周辺化を実行し始める。1882年から2年間かけて、メーソンの協力で『小学唱歌集』を編纂する。この中には、『蝶々』や『蛍の光』、『仰げば尊し』が含まれている。唱歌には世界各地の民謡に日本語の詞をつけた曲や文部省が作詞作曲した曲もあり、言文一致体が原則として取り入れられている。伊沢は子どもたちが慣れ親しんできた民謡やわらべうたを排除し──当時、小学唱歌と違い、幼稚園で歌われていた保育唱歌は雅楽調だったが、小学唱歌に吸収されていく──、音楽教育を天皇制国家に柔順な児童を生産する道徳教育の一環と位置づけている。
ただ、日本の唱歌は音楽性に関する配慮が乏しい作品も少なくない。典型が『鉄道唱歌』である。全6州・374番まである。『ドリフ大爆笑』で旅行会社の社員たちが出発時刻を待つお客のために夜通し歌うコントに使われているほどだ。しかも、その中には第1集16番の「三島は近年開けたる」のように、歌詞とは思えないような記述も含まれる。唱歌は音楽ではなく、政府による啓発や教育、宣伝を目的として利用されている。かくして「唱歌校門を出ず」と揶揄されることになる。
この唱歌のコンセプトは演歌や軍歌に引き継がれる。のみならず、朝鮮半島や台湾など旧日本の植民地でも、現地の言語による同様の折衷的な歌が歌われるようになっている。また、雅楽の旋律だけでなく、雅楽の楽器も音楽教育から駆逐される。ベトナムからモンゴルまでの広い地域で、ヨーロッパで整備されたオーケストラ文化が生まれているのも、日本の帝国主義拡大の影響を受けている。
近代日本について、西洋が何世紀に亘って達成されてきたものをわずか一〇〇年で実現した変化の激しさを強調して論じられることが多いが、ほかのアジアの地域の経験はそれ以上に激烈である。「たとえばタイ。低湿地を人工的に農地化し、それをいま工業化しようとしている。日本の何百年かの歴史を、百年ぐらいに圧縮して見る気分。あるいはインドネシア。火山国で、地味が豊かで農業生産性が高く人口が密集している。ヒンズー教、仏教、イスラム教と、異文化が流入して、それが多様化してインドネシア化する。こちらは日本の歴史をひろげた気分。もちろんそれらが日本と異質なことは当然。ASEANを見る視点でのイメージだけの話。イメージと言って、デザインと言っていない。APECで日本のリーダーシップなどと言われるが、『大東亜共栄圏』のことがあるので、あまりリーダーシップと言ってほしくない。それだと、米国や中国のような大国政治の構図のなかでのデザインになる。デザインを考え出すと文化よりは政治で、力の地図をえがきかねぬ。それよりは、文化のイメージをえがくほうが安全」(森毅『二十一世紀のアジア』)。
日本では、明治まで、「音樂」は伝統的に器楽を指し、声楽音楽はその範疇として扱われていない。そうした伝統を持つ日本が幕末・明治に西洋音楽と接触したことは非常にタイムリーである。西洋音楽は、近代に至るまで、声楽ジャンルを中心に発展してきたが、資本主義が勃興する国民国家体制下、器楽音楽が全盛の「絶対音楽」の時代を迎えている。
笠原潔は、『西洋音楽の歴史』の中で、幕末・明治期における西洋音楽との接触について次のように述べている。
平安時代以降の日本では、「音樂」という言葉は、独自な用語法の伝統の下に用いられてきた。その場合、「音樂」という言葉は、「高尚な・異世界へと誘う・器楽風音楽」という意味で用いられてきたと言ってよかろう。そうした用語法は、「音樂」を意味する西洋近代語の単語がまず第一に声楽音楽を指してきたのと対照的である。
幕末に西洋音楽が流入してきた時、当時の日本人たちは、そうした用語法の伝統の下に、西洋の音楽を受け入れた。その場合、彼らが「音樂」という言葉で真っ先に受け入れたのは、西洋の器楽音楽であった。
そうした「音樂」という言葉の範疇に西洋の歌曲や歌劇までもが含められるようになったのは、明治時代に入ってからである。
西洋音楽史上、特殊な時期の音楽が日本の伝統と合致して受容され、その後、歌を中心とした音楽教育を通じて、「音樂」の意味が転倒される。明治以降の音楽教育では、声楽音楽がカリキュラムの中心に置かれ、器楽音楽は二の次である。声楽音楽は音楽の近代化=西洋化を象徴する。なおかつ学校で教える器楽音楽も三味線ではなく、西洋の楽器によって奏でられるものが選ばれる。音楽も脱亜入欧を果たさなければならず、それは子どもの頃から体得すべきだというわけだ。
その上、子どもは将来の労働力として資本主義によって発見され、国民国家体制の下では、小さな大人である。古典主義では、人格の完成を重視していたのに対して、ロマン主義は人格の成長を強調し、一個人の知的・感情的発展過程を描写する「教養小説」がドイツで書かれるようになる。上田万年《かずとし》は、1889年(明治22年)、グリム童話を翻訳・紹介し、さらに、1911年(明治44年)、アンデルセン童話の口語訳『安得仙家庭物語』を出版している。ロマン主義者は、人類を普遍的な観点から把握するよりも、自意識の優位を国家や民族に広げ、個々の国家や民族が持つ個別の歴史や特徴に目を向ける。英語の”nation”や”state”は18世紀末にロマン主義と共に生まれた概念であり、日本語の「国家」や「国民」は19世紀末、「民族」は20世紀初頭にやはりロマン主義者が発明している。ナポレオン戦争における国民意識の高揚をきっかけに、グリム兄弟は民話や民間伝承を採集・研究して、各民族言語の使用を推奨し、ウォルター・スコットは歴史小説を創作している。同様の事態が、日露戦争以降、日本でも起きている。
伊藤左千夫は近代化によって失われた風景を『野菊の墓』(1906)に綴り、柳田國男は民俗学を創始し、森鴎外は歴史小説を書き始めている。
栄行く御代の民草我等
事業こそは種々かはれ
かはらぬものは心の誠
誠を守る商人我等
いでや見ませ朝な夕な
撓まず共にいそしむ我等
競ひの場のますらを我等
命のかぎり人には負けじ
忘れむ家を惜まじ身をも
力を頼む商人我等
いでや見ませ朝な夕な
撓まず共に戦ふ我等
(森林太郎『横浜市立横浜商業高等学校校歌』)
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