北大路魯山人、あるいは美食の理論(9)(1992)
9 近代の超克と魯山人
こうした魯山人の日本料理の完成の主張は突然出現したのではない。実は、歴史的に見ると、近代の克服を目的とした座談会「近代の超克」とパラレルに行われている。
「近代の超克」の言う「近代」は太守デモクラシーを指している。その議論は大正デモクラシーの後継である戦後民主主義批判の度に復権される。「近代の超克」に関しては竹内好や橋川文三、廣松渉などが優れた論考を残している。それらを十分に踏まえた上で、柄谷行人は、『近代の超克について』において、「近代の超克」を次のように説明している。
「近代の超克」とは、日米戦争が勃発した直後の昭和十七年、雑誌「文學界」が特集したシンポジウムによって一世を風靡した主題である。しかし、この座談会だけを取り上げるのは的はずれである。また、それを昭和十七年という特定の時期に限定すべきでもない。この座談会は「文學会」グループ、「日本浪漫派」、および「京都学派」の三派で構成されているのだが、後の二派の中心人物保田與重郎と西田幾太郎は不在であり、「文學会」グループの小林秀雄はほとんどしゃべっていない。ところが、「近代の超克」と呼ばれるべき思考の核心は、この三人によって、ほぼ昭和十年前後にまとまったかたちですでに出ていたし、それを検討することなしに、この座談会だけを論じるのは不毛にきまっているのである。「近代の超克」は、明治以来の日本の代表的知性がたどりついた一極点なのだ。
柄谷は昭和20年からを戦後として論ずることを斥け、「昭和十年前後」まで遡って考察している。「近代の超克」論はその試みの一環である。「近代の超克」はたんなるナショナリズムの高揚や大東亜共栄圏の正当化として表面化したのではない。それは政治的な問題を論じてはいるが、出席者たちのほとんどが、日米戦争が始まっているにもかかわらず、アメリカに関してほとんど言及していないように、政治主導に対する文学・哲学の抵抗である。「近代の超克」とは経済的なものに基づいた近代を政治的なものによってではなく、文学的・哲学的に超克する企てである。これにはヘーゲルの歴史哲学の影響が見受けられる。ヘーゲルの認識はプロシア国家では他の諸国よりも、歴史的に見て、最も「自由」が達成されているという「自由の超克」である。一方、「近代の超克」は「自由」の問題を文学的・哲学的領域として扱い、日本において、他の諸国と比べて、最も近代の超克が実現しているという発想である。
これまで論じてきたことから明らかなように、魯山人とヘーゲルの思想の間には類似性が見出せる。しかし、魯山人がヘーゲルの哲学を知っていたかとか、その著作を読んでいたかということは必ずしも重要ではない。また、魯山人が京都学派と接点があったかどうかも同様である。
ただ、魯山人の日本料理に対する賞賛の主な文章が発表され始めたのは、マルクス主義運動が弾圧された昭和5年の後であり、先に述べたように、この「昭和十年前後」からである。魯山人は、1940年以降、敗戦後しばらくまで--漆器製作に専念、沈黙する。戦後の昭和20年代から30年代にかけて発表された文章は、料理に関するエッセーに限らず、戦前のそれと比較すると、精彩を欠き、視野か狭くなり、凡庸なものになっている。
魯山人の料理に関する優れた洞察もこうした歴史的・社会的状況が生み出したものである。自身が主張しているように、彼個人の力以上に、「時代」が魯山人の芸術理論の出現を可能にしている。魯山人がそうした「時代」の中にいて料理を考えるとき、世界史的視野を持たざるを得ない。魯山人が料理を哲学にし、さまざまな分野で新たな地平線を切り開いたのは、この「時代」に結びついた生を保持し、「時代」をたぐりよせるように思考していたからである。
その上で、魯山人は、『味覚の美と芸術の美』において、日本を、芸術に限らず、すべての終着点であると次のように賛美する。
ここにおいて、私はなぜこう日本人のみが一人世界に冠絶した素質を有するかを考えざるを得なくなった。これは、なにもお国自慢でもなんでもない。あらゆる方面における作品と行為を見れば見るほど、私のみてなく、誰だってその感を深くすることであろう。
なるほど、科学の進歩や工業の発達においては彼らが秀れていた。しかし、それは日本が鎖国という特別の事情が存在していたからであって、一度彼らと文通するや、たちまちにして世界の知識を学びとり、科学であれ、産業であれ、すべての文化において彼らを凌駕して一歩も引けをとらない。それはなぜだろうか。
私は地球上日本が、優れた自然天恵を享けて成り立っているからだと思う。そして、このような地理的に秀れた環境のもとに、日本人が育てられ、民族としての優秀な素質を培われたにほかならぬと考えざるを得ないのである。日本の自然が、日本の気候風土が世界に冠絶していることは、今さら私が改めて言うまでもないと思うが、日本人の秀れた素質は、偏えに、この自然の天恵何万年を経た結果に帰すべきであろう。
山紫水明、あまつさえ四囲に青海をめぐらして、機構の調節的温和なること、地味の肥沃なること、いずれの点より見るも、これが生物によっては優れた自然天恵の日本であることが分る。だから、さかなひとつに見ても優れた魚族であり、樹木一本較べてみても、秀れた良質と言えよう。
魯山人の主張には日本的なもの(テーゼ)と外来的なもの(アンチテーゼ)から新たな日本的なもの(ジンテーゼ)が生まれるという弁証法が成立している。魯山人にとって、「漢意」を退け、「やまとごころ」を守ろうとすることは誤謬であり、鎖国は究極的な失策である。そもそも純粋な「やまとごころ」など、「現在、純日本料理はないであろう」ように、存在しない。このような魯山人の日本賛美は国学的な発想から離れている。「外来的な理論や宗教に圧倒された後に、日本人が自らの根拠や原理を見いだそうとすると、結局無原理=無根拠そのものを原理として見いだすことになる。それは、決まって『情』であり『美』である。また、それは対外的な関係に背を向けた『鎖国的』な状態において生じる」(柄谷行人『近代日本の批評--昭和前期Ⅱ』)。
なるほど魯山人は「美」に向かっている。けれども、彼は「無原理=無根拠そのものを原理として見いだすこと」はない。彼は合理的なものだけを「美」として認めている。魯山人にとって、「対外的な関係に背を向けた」自己充足的なナショナリズムは、むしろ、日本の特性を殺ぐことになり、自殺を煽動するような思考だ。日本にとって、アイデンティティというものは、「現在、純日本料理はないであろう」以上、明確にあるわけでもない。それを狂信的に過去や伝統に求めることは不毛である。
魯山人の日本賛美はたんなる排外的なナショナリズムではない。日本はすべてを消化する丈夫な消化器官に恵まれている。世界交通はすべて日本に向かう。日本がすぐれているのは、よい「自然」に恵まれているため、さまざまなものが入りこんでくることであり、日本においてすべての芸術が完成し、真の「自由」が達成される。完成するとは日本化することである。日本化とはもうこれ以上応用できないということにほかならない。日本は世界史における芸術や「自由」の到達であって、日本料理は終わりの料理であり、日本芸術は終わりの芸術である。
先に述べたとおり、こうした魯山人の主張はエスノセントリズムである。実は、この日本賛美の発想は台湾を植民地支配したことから生じている。魯山人特有の嗜好ではない。日本は前近代において中国文明の強い影響を受けている。清に西洋からとり入れた近代文明によって戦争で勝利、その結果、台湾を支配する。しかし、この過程にはまったく日本固有のものがない。日本人はアイデンティティが何かを問わざるを得なくなる。そこで、日本人は外来のものを吸収、日本語によって日本化することがアイデンティティと自認する。そのため、日本人は植民地において日本語教育を強制化していく。
外来思想を吸収して日本化することがアイデンティティとする認識は対外的な関係から生まれている。しかも、それは日本の優越さを誇示する際に持ち出される。もちろん、日本が帝国主義化した当初、ヘーゲルは思想界に浸透していない。ただ、ヘーゲルの歴史哲学に先進的な他国とプロシアとの関係が反映している。東アジアにおける日本の状況がその親近性から後にヘーゲルを引き寄せたと言えるだろう。
こういった思考は、戦後、「雑居文化」や「無原理の原理」などと批判される。しかし、それは肯定的評価を否定的にしただけで、本質的な批判たり得ていない。だから、世界史の最終段階としての日本化の議論が後に復活している。
80年代にポストモダン思想が流行した際、このような主張が盛り上がっている。それは、アレキサンドル・コジューヴの1959年の指摘の援用である。
「最近開始された日本と西洋世界との相互交流が最終的に行き着く先は、(ロシア人をも含む)西洋人の『日本化』である」と書いたコジューヴは、その『ヘーゲル読解入門』第二版脚注において、次のように述べている。
「ポスト歴史的な」日本の文明は、「アメリカ的生産様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ」的あるいは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、そこでは純粋な形式のスノビズムが、「自然的」あるいは動物的な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において、「歴史的」な行動から生まれた規律は、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律をはるかに凌駕していた。なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビズムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的不平等にもかかわらず、日本人は例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべてうしなった価値に基づき、現に生きている。
コジューヴは伝統的なヘーゲルの解釈にしたがい、オーソドックスな作品読解を展開しているから、ラジカルな読みを好むものには、不満が残るかもしれない。ヘーゲル哲学の可能性がコジューヴによってすべてカバーできるわけではない。フォイエルバッハに傾倒したアレクサンドル・イワーノヴィチ・ゲルツェンがヘーゲルの学説を「革命の代数学」と指摘したように、ヘーゲルの記号化した代数方程式の応用は、現在でも、魅力的な作業であることは間違いない。「代数学とは、既知の諸量、あるいは既知と仮定されたる諸量の関数として未知量を決定する学問である。またそれは、方程式の一般的解法を見出す学問である。一般的解法とは、同次のあらゆる方程式に対して、その根のすべてを表わすような該代数方程式の係数の関係を見出すことである」(ラグランジュ『数学方程式の解法』)。
しかし、知的好奇心はあまりそそられないだろうけれども、オーソドックスな読みが持つ並々ならぬ影響力は無視することができない。コジューヴのヘーゲル哲学の紹介は、デカルト主義や実証主義、新カント派、ベルクソン主義といったフランス知識人の対立を統合して、克服する原理として若者に歓迎される。ヘーゲル哲学は、多くの場合、混乱・対立を止揚するヒントとして受容される。その安定した秩序を母体に新たな子が生まれていく。「前世紀の偉大な哲学理念--マルクスとニーチェの哲学、現象学、ドイツ実存主義、精神分析--はすべて、ヘーゲルに端を発している。ヘーゲルに起源することを忘れたがる恩知らずな諸理論と、起源そのものとの関係を再確立することが、文化的に最も急がれる課題である」(モーリス・メルロ=ポンティ『弁証法の冒険』)。
魯山人にしろ、コジューヴにしろ、哲学的な反省原理によって、導き出した結論であることに注意を払わなければならない。「スノビズム」を鎖国的状況が生み出す自己充足と解釈することは誤謬である。それはすべてがその一点に終着してしまったために、そこで形式的に繰り返すほかないという認識だ。魯山人にとって、歴史はすでに終わっていたのであって、彼の芸術はその認識において発せられていたものである。
魯山人は自分を「終わりの芸術家」として位置づけている。その彼にとって、「自然」の真の完成を目指す料理は「始まりの芸術」であると同時に「終わりの芸術」である。だから、魯山人は、谷崎や川端らと同様に、戦後になって日本文化を紹介し始めたオリエンタリストのアメリカ人やフランス人によって「ポスト歴史的な」芸術家として発見される。当時、彼らは、ドナルド・キーンの回想によると、日本国内ではもはや時代遅れの存在である。その後、魯山人の作品が日本国内で受け入れられるようになったのは、最初は「昭和元録」というスノビズムの時代であり、次には「歴史の終焉」という認識の生じた80年代という時代だ。それは「近代の超克」の終わりの言説が繰り返されたときである。
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