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石破発言と政治的パターナリズム(2013)

石破発言とパターナリズム
Saven Satow
Dec. 17, 2013

「己をもって人を量る」。

 石破茂自民党幹事長は、2013年11月29日、自身のブログに「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」と記す。特定秘密保護をめぐる世論の厳しい批判を浴び、このデモとテロの同一視を撤回するが、他の部分に関して訂正していない。デモをめぐって「左右のどちらの主張であっても」として、抗議運動が政治イデオロギーに基づいている自説もそのままである。

 その後、幹事長は知る権利の制限を当然視する発言を続けている。12月11日、日本記者クラブの会見において、「報道することで我が国の安全が極めて危険に瀕するのであれば、その行為は何らかの方法で抑制されることになろう」と述べる。また、翌12日、民放のラジオ番組で、「報道の自由として報道する。でも大勢の人が死にましたとなればどうなるのか。処罰の対象ではない。だから、いいんだ、ということになる」と言っている。

 この考えはかねてからの持論である。13年12月14日付『朝日新聞』「石破氏、国家観かたくな」によると、幹事長は05年に刊行した自著『国防』の中でも同様の見解を記している。「報道の自由、知る権利というが、我々には知らせない権利がある」。

 個人より国家を優先する政治思想として古典的共和主義が挙げられるが、幹事長はそうではない。彼の意見では政府が優先されており、共和主義の持つ権力分立による相互牽制が乏しいからだ。幹事長の発想に根づいているのは政治的パターナリズムである。彼は一貫してこれに基づいて自説を口にしている。

 「パターナリズム(Paternalism)」は本人の意思に反して行動に介入・干渉することである。ラテン語の”pater”、すなわち「父」に由来し、家父長主義からの類推であり、「温情主義」や「おまかせ主義」とも訳される。

 政治的パターナリズムは19世紀の欧州を始め近代化が進みつつある時にしばしば見られる。それは次のような文脈で使われる。愚かな民衆に無条件に選挙権を与えると、感情に流され、数の横暴を招きかねないから、財産と教養を持った層が大局的に統治を担うべきである。また、非エリートは近代化の意義を理解しておらず、エリートが彼らの意図に反しても推進する必要がある。おれたち庶民には難しいことがわからないから、頭のいい官僚やおらが先生にまかせておけば安心だ。さらに、未開人は野蛮の状態にあり、文明人は彼らの意図に反して開明化する必要がある。

 このイデオロギーは国家目標が明確な際に利用され、エリート主義やおまかせ民主主義、開発独裁、植民地支配を正当化する。しかも、支配者層は自己犠牲的な英雄と自らを見立てられ、その傲慢さに気が付かない。文明化を自らに課された重い使命だとするライヤード・キプリングの「白人の重荷」がそれをよく物語っている。

 政治的パターナリズムは科学コミュニケーションにおける「欠如モデル」と同じ思考回路をしている。非専門家が専門家と違って科学技術に不安を覚える理由を知識の欠如に見出す考えである。この構図では非専門家は反科学的と位置付けられる。専門家は彼らに欠如している知識を与えてやらなければならない。

 今日の自由民主主義体制において政治的パターナリズムは主流の考えではない。それはコミュニケーションが一方向的であり、多元主義に十分対応できないからだ。

 先進諸国の間で、多元主義が社会に広く認知され始めたのは1970年代からである。ロバート・イングルハートによれば、物質主義的価値観に対して反物質主義が台頭し、「静かな革命」が遂げつつある。それを従前のイデオロギー対立から把握することはできない。

 争点が産業の近代化や所得の再配分といった階級対立から環境保護やマイノリティの権利擁護に代表される新しい社会運動へと移る。それは、ヴィクター・ターナーの用語を使えば、エリートのコミュニティ、すなわち「構造(Structure)」に対するオルタナティヴなコミュニタス、すなわち「反構造(Anti-structure)」の挑戦である。高度成長を経て民主制が安定し、社会が成熟、市民は自己決定権を求め始め、従来の回路と異なる政治参加が発展していく。こうした運動は戦後に形成されて硬直しつつあった政治システムに新たなダイナミズムをもたらしている。

 現代社会は複雑化・高度化・細分化しているのだから、すべてを自己決定できるわけがないという批判は短絡的である。なるほど近代は自立した思考を主張しながら、ライフラインに代表されるサービスへの依存が高まっている。だから、サービスをブラックボックスとして受容するのではなく、基礎的な共通理解であるリテラシーの重要性が説かれるようになる。自己決定は自立と依存の調整の中で行われるものであって、両者を対立して捉えるべきではない。すべてを自己決定できるはずがないのは当たり前であって、それをことさらに批判することは思考の放棄にすぎない。

 政治的パターナリズムがエージェンシー理論をもたらしやすいことは容易に想像がつく。情報の非対称性から生じるモラル・ハザードをどうするかを考える方がそんな批判よりはるかに建設的である。

 幹事長の意見は政治的パターナリズムに貫かれている。コミュニケーションの一方向性指向、政治参加の回路の多様化への懸念、左右のイデオロギーによる社会運動の把握など70年代以降にそぐわない認識ばかりである。これでは現代の政治課題に対処するのにふさわしくない。自由民主主義を共有し、ツワネ原則をまとめた国際社会の共通認識とずれている。

 パターナリズムが現われるのは、実は、政治に限らない。介護や看護、精神医学、幼児教育などの臨床場面で権利との兼ね合いの中で今も論じられている。権利が尊重されなければならないのは、それが人間の尊厳の法的保障だからである。権利の制限はその尊重の制約だ。自己決定の権利は人間の尊厳に関わる。だから、尊重されなければならない。70年代以降の新しい社会運動が切り開いた政治課題は踏みにじられてきた尊厳の公認と要約できる。その本質を理解しない政治家が21世紀の日本にはいる。
〈了〉
参照文献
ロナルド・イングルハート、『静かなる革命─政治意識と行動様式の変化』、三宅一郎訳、東洋経済新報社、1978年
ヴィクター・ターナー、『象徴と社会』、梶原景昭訳、紀伊国屋書店、1981年
宮台真司監、『統治・自律・民主主義─パターナリズムの政治社会学』、NTT出版、2012年

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