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メキシコに見る政権交代(2005)

メキシコに見る政権交代
Saven Satow
Aug. 31, 2005

「哀れなメキシコよ。神からは遠く離れ、アメリカにはあまりに近い」。
ポルフィリオ・ディアス

 第44回衆議院議員選挙において、与党が小泉純一郎政権の郵政民営化法案を争点に選挙戦を展開しているのに対し、野党第一党の民主党は政権交代を訴えています。野党第二党の日本共産党は「確かな野党が必要です」とスローガンを掲げていますから、どちらが政権をとろうと、政権とは一線を画すようです。なるほど、1955年に左右の社会党が統一したのに刺激を受け、自由党と民主党が合同して自由民主党が結成されて以来、細川護煕政権と羽田孜政権を除き、自民党は与党の座にあり続けています。

 この変化の乏しさを日本人の精神性に求めるとしたら、認知バイアスでしょう。自民党が結党されるまでは、戦前戦後を通じて政党政治が行われていた時期、政権交代がしばしば起きています。

 二大政党があれば政権交代がおのずから起こるわけではありません。多元的民主主義の原則を順守する異なった理念を持つ複数の政党が政策を示して統治担当を競争するのが現代ンお政党政治です。それを踏まえていて、有権者にとって選挙が意義ある政権選択となり得るのです。政権交代が制度として確立するには。多くの課題を克服しなければならないのです。

 複数政党制を採用しながら、世界には、自民党以上に長期政権を続けた政党があります。それはメキシコの制度的革命党(Partido Revolucionario Institucional: PRI))です。この政党は、実に、71年間も政権を担当しています。メキシコは、日本と違い、大統領制ですが、複数政党制で選挙も与党候補が絶対的に有利な制度ではありません。日本で政権交代が起き難いのですけれども、自民党はこの制度的革命党と類似している点があります。

 社会主義的な革命としてロシア革命がよく知られていますが、メキシコでも起きています。始まりは1911年とロシア革命より早く、10年間続いています。1877年に就任したポリフィリオ・ディアス大統領の政権は腐敗した独裁体制で、蓄積した民衆の不満がとうとう爆発し、メキシコは国内を二分する内戦に突入します。

 その内戦が終結しても、不安定な政治情勢が続きます。1929年、いくつかの勢力が結集して国民革命党が結成され、政権与党の座につきます。ところが、1930年代は世界恐慌の時代ですから、メキシコもその例外ではなく、農民や労働者を中心に生活の困窮はひどいもので、いつ暴動が起きてもおかしくない不穏な空気が覆い始めます。

 国民革命党がこうした不満のガス抜きとして、実力者たちは党内左派に属する改革派のラサロ・カルデナスを大統領選挙候補に立て、思惑通り、勝利します。しかし、この元軍人は彼らの予想外の行動に出ます。彼は、何と、本気で改革に着手するのです。

 カルデナスは政党という概念を転換させます。従来、政党は特定の階級や団体、集団の利益を固有の発想に基づいて代表するものです。イギリスの労働党は労働組合の代表ですし、ドイツのキリスト教社会同盟はバイエルン州のカトリック教徒を支持基盤にしています。ところが、カルデナスは政党をそういった利益代表ではなく、支持者の利益の調整役と考えます。包括政党の誕生です。

 そこで、カルデナスはまず主な支持層を中間層に置きます。彼らは資本主義の発達により増加した層です。有権者の多くはここに属しますから、その支持をとりつけられれば、選挙では圧倒的に有利になります。次に、失うものがなく、爆発寸前の貧困層のために、教育改革・農地改革・労働組合的な政策を実施します。

 その上で、保守的な富裕層に向けて、ナショナリスティックな政治見解を表明したり、メキシコ人の誇りを訴えたりしています。37年、合衆国資本の石油会社をすべて国有化しています。この石油がメキシコの発展を支えていくのです。党内の反対派は指導者の権威性を高めることで抑えこみます。もちろん、彼の政策に不満のある党外の左右両派はいますが、多勢に無勢というものです。

 カルデナスは1938年に国民革命党をメキシコ革命党に改称させます。彼は40年に政権から退きますが、その後継者たちはカルデナスの政策を引き継ぎ、時代に応じて、世論を汲み取るような候補者を立て、大統領選挙で勝利し続けます。有権者も利益配分にあずかれるため、この党に依存し、一党優位の体制が確立されていくのです。

 48年、メキシコ革命党は制度的革命党へと名前を変え、現在に至っています。「制度」と「革命」というおよそ馴染まない二つの概念を併記しているように、矛盾するはずの左右両派を支持層に取りこんでいるのです。自民党も幅広ですが、制度的革命党はさらに広いのです。このカルデナス主義は非常な成功を収め、その後の歴史において、メキシコは、中南米諸国で、唯一軍事クーデターや独裁政権を経験しなかった国です。

 ただし、PRIの脅しや懐柔に従わない勢力には警察や軍を使って抑圧しています。先進諸国と比べれば、権威主義的側面を有しており、民主主義の質が高いとは言えません。

 外交面でも、こういった調整の姿勢が打ち出されます。経済政策としては合衆国寄りをとっています。合衆国との経済格差は大きいですから、合法・違法を問わず、メキシコから労働者が流入しています。彼らからの送金はメキシコにとって貴重な外貨収入であるだけでなく、その安い労働力がアメリカの西部・南部の経済を支えています。両国の経済的つながりはきわめて強いのです。

 一方で、反帝国主義・反拡張主義を掲げ、社会主義国家とも良好な関係を築いています。メキシコの領土は、もともと、現在の二倍もあり、そのほとんどがアメリカ合衆国に奪われたものです。カルデナスがスペイン内戦で負けた人民戦線派を1万人以上も難民として受け入れて以来、左翼の亡命者のために積極的に門戸を開放しています。その中には、レオン・トロツキーやエーリッヒ・フロムがいます。この亡命者たちがメキシコの文化を活性化しています。

 こうしたカルデナスの政治は、後に、「ポプリスモ」と呼ばれます。「ポピュリズム」です。マルクス主義は階級闘争によって革命を実行するとします。けれども、中南米諸国ではその担い手である労働者階級が未発達です。そこで階級協調によって社会改革を成し遂げようとするのがポピュリズムです。階級官位は利害対立がありますから、その調整にバラマキが使われます。その財源がなければ、財政は悪化します。その結果、社会が魂胆し、そこに軍事クーデターが起きるわけです。

 ポピュリズムのような成功した政治が放っておかれるはずもなく、中南米諸国で模倣されます。映画『エビータ』でお馴染みのアルゼンチンのファン・ペロンもその一人です。しかし、10年間程度でことごとく失敗し、軍事クーデターが起きた国も少なくありません。

 メキシコだけが成功した理由はいくつかあります。産油国なので、財源があったことも一因です。しかし、82年にメキシコは債務危機に陥っています。他であれば、ここでクーデターが起きてもおかしくありません。そこで見逃してはならないのは農地改革です。メキシコは農地改革をすでに実施しています。

 一般のポピュリズムは農業の改革を抑えて、急速に、工業化社会に移行とさせようとしたのですが、国際競争力のある製品を生産できるまでには育ちません。輸入代替が失敗した状況で、政府が人口の多くを占める農民からソッポを向かれてはたまりません。農地改革をしないと、農村で貧富の二極化が進み、社会不安の一因になりかねないのです。日本は輸入代替で成功したという違いはありますが、自民党も農地改革の後に成立した政党ということを忘れてはなりません。

 しかし、さすがのPRIも80年代から陰りが見え始めます。長期政権からもたらされる政治腐敗や権威主義に不満が募り、82年、石油価格の急落から累積対外債務が急速に悪化し、金融危機に陥ってしまいます。85年には大地震が発生し、88年、大規模なハリケーン災害が発生し、経済状況はさらに悪化していきます。調整すべき利益がなくなってしまうのです。

 PRIは派左右両翼の反対勢力から挑戦を受け、その絶対性がゆらぎます。北部一帯では、右派野党の国民行動党の勢力が拡大します。また、87年、前ミチョアカン州知事であったクアウテモク・カルデナスがカルロス・サリナスとの大統領候補指名争いに敗れて離党したことで、PRIの支配体制の溶解は決定的になります。このラサロ・カルデナスの息子は党内左派の中心人物で、党内左派グループが彼と共に大量に離党し、左翼政党を結成します。

 カルデナス左派候補は88年の大統領選挙に臨みます。この集計中に謎の不具合が発生しています。票の集計中に、突然コンピュータが「故障」してしまうのです。再開した後、PRI候補サリナスの優勢が発表されます。ドリフノコントまがいの事件によって当選の正当性は著しく欠いたものになります。PRIの支配体制は表面的にはかろうじて維持されます。

 経済の復興を目指すサリナス政権は、89~93年に80%の国営企業を民営化し、外資規制も緩和され、92年6月、憲法を修正し、教会に課せられていた規制を廃止します。同年12月には、貿易と外資導入の拡大を目的にアメリカ、カナダとの3国間でNAFTA(北米自由貿易協定)を締結、NAFTAは94年1月1日に発効します。しかし、ペソの大幅切り下げと国際信用の低下に伴い、経済が落ちこんでいきます。

 94年の選挙で、こうした情勢に加えて、メキシコ革命の英雄エミリアノ・サパタを崇拝する先住民主体のゲリラ組織サパティスタ民族解放軍が南部で武装蜂起し、サリナス大統領をめぐるさまざまなスキャンダルも表面化して、PRIは勝利したものの、冷や冷やもので、下野は時間の問題となります。その上、PRIの大物政治家を狙った暗殺も頻発します。

 2000年の大統領選挙において、右派の国民行動党出身のビセンテ・フォックスが当選します。同時に行われた国会議員選挙でも、上院で過半数を失い、下院においても、第1党の座もPANに明け渡し、ついに制度的革命党は野党に転落するのです。

 自民党も、PRI同様、利益代表と言うよりも、利益調整の政党でしょう。自民党の国会議員は、その結果、毎年一人の割合で逮捕されるという合法的団体としては極めて高い逮捕率を保っています。経済状況の悪化に伴い、そんな自民党の利益調整役としての地位が低下し、内部分裂が起き、地域政党が誕生するなど制度的革命党が下野していく過程に似ています。しかし、メキシコでも、政権交代に至るまでそれが問われてから20年近くかかっています。政権交代が制度として確立されるにはさらに時間がかかるのです。

 長期に一党優位制が続けば、他党には統治の経験がないことになります。体制が緩めば、他の勢力にも協力・連立などによって統治に参加できる余地が生まれます。野党にもそうやって経験が蓄積されていきます。本格的に統治を担うためにはそうした時間が必要なのです。政治にも育つ時間が要ることを理解するべきでしょう。
〈了〉
参照文献
紀平英作、『改訂版アメリカの歴史』、放送大学教育振興会、2000年

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