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HOW Dare You!: グレタ・トゥーンベリからの挨拶(2019)

How Dare You!: グレタ・トゥーンベリからの挨拶
Saven Satow
Dec. 17, 2019

“.@GretaThunberg, don’t let anyone dim your light. Like the girls I’ve met in Vietnam and all over the world, you have so much to offer us all. Ignore the doubters and know that millions of people are cheering you on.”
Michelle Obama @MichelleObama 19:12 - 2019年12月12日

 彼女が2019年12月12日に『タイム』誌の「今年の人」に選ばれると、アメリカのドナルド・とランプ大統領は「グレタは自分の怒りをコントロールする問題に取り組むべきで、友だちと古き良き映画を見に行けばいい」と自分自身について語っているのではないかと思われるツイートをしている。それを受け、彼女は自らのツイッターの自己紹介欄に「怒りのコントロールに取り組む10代。今は落ち着いて友だちと古き良き映画を見ている」と記している。

 また、ブラジルのジャイル・ボルソナロ大統領は、同月10日、アマゾンの熱帯雨林で先住民2人が殺害された事件を非難する彼女に対し、「ガキ(Pirralha)」とガキっぽく罵っている。それを知った彼女はツイッターのプロフィール欄に”Pirralha”と掲載している。

 彼女は自分に対する揶揄をこのような才気あふれるユーモアで切り返すだけではない。涙を流しながらの情熱的なスピーチをしたり、自らの主張に沿った根性のある行動をしたりする。それは若者世代を中心に共感と行動の輪が世界に広がっている。その連帯運動はブロックチェーンで、インターネットを通じて、お互いに確かめ合いつつ、発展している。悪意のある攻撃が加えられても、このネットワークが消え去ることはない。

 彼女は『長くくつ下のピッピ』のピッピや『ペイ・フォワード 可能の王国』のトレバーに譬えられている。彼女に対する反感や冷笑、妬み嫉み、罵詈雑言、妨害も少なくない。そんな言動や行動をしているのは、先の二人が端的に示しているように、「オヤジ」である。

 「オヤジ」は反自由主義者の別名である。近代は自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成している。自由主義は自由・平等・友愛の理念を社会へ実現することを目指す近代本流の思想である。この自由主義の理論・実践により、その批判にもこたえつつ、社会は変化・発展してきている。しかし、「オヤジ」はその進化に反発する。自分が社会の維持・運営に責任を持って安定させていると自負しているため、自由主義的進化はそれを不安定化する無責任なものと嫌悪する。静的社会を指向する「オヤジ」は、自由主義のもたらす動的契機を逸脱と捉える。

 現代リベラリズムの最も主要な思想としてフェミニズムを挙げることができる。「オヤジ」はこのフェミニズムを蛇笏のごとく嫌う。近代の最も基本的な原則は、トマス・ホッブズの社会契約説により、政教分離である。政治を公的領域、宗教を私的領域として分離することであるから、それは公私の区別につながる。フェミニズムはこの公私分離を私の側からの再検討を促す視し鵜である。私的領域とされてきたことに公的な権力関係・構造が干渉しているとフェミニズムは告発する。ある夫婦において育児休暇を妻がとることは私的事情である。だが、それが社会で多く見られるとしたら、その選択は私的ではなく、公的な影響が強いていると言わざるを得ない。フェミニズムを女性の解放とするのは早とちりにすぎない。

 「オヤジ」は、だから、男性に限らない。その虚偽意識を内面化し、自由主義による社会の発展・変化に反発する女性も「オヤジ」である。

 このごろどうも、おじさんぽい言説が、社会の表層で幅をきかせているような気がする。社会の価値観が変わろうとしているときだけにかえって目につくのかもしれない。
 おじさんやおばさんの言説的特徴は、ものごとを単純に割りきり断定したがることだ。「人間が生きていくにはきびしさが必要だ」とか、「どの世界にもいじめはある」とか。さすがに今では、「男は女を征服したがるものだ」とか「金さえあれば幸福が買える」だとかは口に出しにくいが、心の底で考えていないでもない。
(森毅『みんなおじさん化』)

 森毅は「おじさん」を使っているが、現代日本語では「オヤジ」がふさわしい。それは認知行動を指すので、中高年に限らず、高齢者や若者にも適用される。ここまでの「オヤジ」をめぐる言及も、実は、この森毅による2001年の作品に負っている。

 グローバル化により世界各地で「社会の価値観が変わろうとしている」。従来の処理能力では扱いきれない情報量が流れこみ、将来の社会のイメージがつかめないと感じる少なからずの人たちを不安にする。こうした背景により「オヤジ」の言説が幅をきかせる。「オヤジ」の「言説的特徴は、ものごとを単純に割りきり断定したがることだ」から、「リベラルというのは、いろんな考えを認めること」(『みんなおじさん化』)とは背反する。そのため、「オヤジ」の批判の矛先は近代本流で、多様化を促してきた自由主義に向く。

 世界各地で反自由主義的言動・行動が「社会の表層で幅をきかせている」。そのリストレイシズムや権威主義、縁故主義、ポピュリズム、セクシズムなどさらに伸び、リベラル・デモクラシー、すなわち多元的民主主義の破壊を続けている。日本を含め自由民主主義を標榜していた国家も「オヤジ」の政治に蝕まれている。反自由主義は社会を分断し、混乱をもたらす。現代的課題から目をそらし、それを自由主義のせいだと取り組むことを放棄する。しかし、負債には利子があり、返済を遅らせれば、雪だるま式に増えていく。

 「オヤジ」が彼女を標的に執拗な攻撃を加えるのは、エコロジーの政治を体現しているからだ。その中心的課題の気候変動はまさに人類全体への負債となるものだ。

 先に述べた通り、近代は自由で平等、自立した個人によって成り立つ社会を理念とする。社会契約説によれば、政府、すなわち国家はその社会のための機関である。功利主義によると、個人の功利、すなわち幸福の増大が社会にとって望ましい。その際、経済成長や科学技術の進展による物質的豊かさが必要で、それにはそうした活動の自由が不可欠である。国家は産業発展を邪魔しないのみならず、促進する制度整備や政策実施を担当していく。

 しかし、急激な産業発展は自然環境にその回復力を大きく上回る負荷を加える。それは無視できない状態に至り、公害を始めとするさまざまな環境問題が噴出する。こうした状況は近代文明自身への懐疑をもたらす。物質的豊かさの追求がこの事態を招いたことは確かである。それは社会の功利の増大に基づいており、この幸福はあくまで人間が中心だ。その信託を受けた政府の活動も同様である。産業主義には人間中心主義が背後にある。

 エコロジーはこうした人間中心主義批判を含まざるをえず、それは近代を相対化する思想である。エコロジーの政治は人間社会の維持と繁栄、すなわち人間の満足以外の課題の考察を促す。伝統的な共通善、すなわち公共の利益に人間以外の自然界全体のそれを加味する。むろん、環境悪化は社会における功利を減少させる。功利を増大させるために、政府はエコロジーの問題提起に応える必要がある。だが、人間の幸福追求自体が環境悪化を招くとすれば、自由の制限が伴い、人々の同意が必要となる。

 エコロジーの主張を自由主義と調和させた発想が持続可能な開発である。フェミニズムがそうさせたように、エコロジーも自由主義を進化させている。持続可能な開発によりエコロジーは拡張された自由主義でもある。

 このように人間中心主義批判は近代文明全体を射程に入れるので、近代以降に蓄積されてきた知識の全否定を招きかねない。それは非合理主義の台頭を許すことになる。その一つが既得権や生活習慣の維持のため、エコロジーの異議申し立てを軽視・無視する動向である。それは、アメリカの地球温暖化懐疑論者が示している通り、科学の知見を恣意的に利用する。一つ一つ挙げるまでもなく、彼女の主張に反対する言説の多くがこの非合理主義に含まれる。

 持続可能な開発は新たな挑戦である。新しいチャレンジはイメージが見えにくいため、しばしば反対される。「オヤジ」は「ものごとを単純に割りきり、断定したがる」から、非合理主義的態度にとどまり、彼女を攻撃する。しかし、今は21世紀である。20世紀ではない。彼女はその21世紀であるが、「オヤジ」は依然として20世紀を生きている。そのため、21世紀につながる20世紀の功を斥け、罪を解き放つ。彼女が象徴しているのは「オヤジ」が開けたパンドラの箱に残っていた「希望」である。

 二十世紀が目標達成型の社会だったのに対し、二十一世紀は状況感応型社会に移行していくと思う。目標のために決まったコースをたどることより、状況を判断しながら対応することに重点が移るだろう。多文化的不確定性が増加すれば、ますますそうなる。これはいくらか不安なことだ。二十世紀では安定のウェイトが高かったから均質性が求められたが、創造は多様性からしか生まれないから、不安定になりやすい。
 でも、なにごとが起こるかわからないということは、新しい物語が生まれるということでもあって、楽しみなことだ。半世紀後に今の若者が彼の生きた半世紀を、新しい物語に語れることがなによりだと思っている。
(『みんなおじさん化』)

 それは、もちろん、「彼」だけではない。「彼女」の物語でもある。“How dare you!”

 私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです。
 あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました。
 それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。
 なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。
 30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。
 あなた方は、私たちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。
 だから私は、信じることを拒むのです。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという、一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は50%しかありません。
 人間のコントロールを超えた、決して後戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。50%という数字は、あなた方にとっては受け入れられるものなのかもしれません。
 しかし、この数字は、(気候変動が急激に進む転換点を意味する)「ティッピング・ポイント」や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠されたさらなる温暖化、そして公平性や「気候正義」という側面が含まれていません。この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で吸収することをあてにしているのです。
 私たちにとって、50%のリスクというのは決して受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。
 IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は67%とされています。
 しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさかのぼって数えて、あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算になります。
 今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。これまでと同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれるとか、よくそんなふりをすることができますね。今の放出のレベルのままでは、あと8年半たたないうちに許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。
 今日、これらの数値に沿った解決策や計画は全くありません。なぜなら、これらの数値はあなたたちにとってあまりにも受け入れがたく、そのことをありのままに伝えられるほど大人になっていないのです。
 あなた方は私たちを裏切っています。しかし、若者たちはあなた方の裏切りに気付き始めています。未来の世代の目は、あなた方に向けられています。
 もしあなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。「あなたたちを絶対に許さない」と。
 私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません。世界は目を覚ましており、変化はやってきています。あなた方が好むと好まざるとにかかわらず。ありがとうございました。
(グレタ・トゥーンベリ『国連気候行動サミット2019年9月23日演説』)
〈了〉
参照文献
森毅、『21世紀の歩き方』、青土社、2002年
「グレタさん演説全文 『裏切るなら絶対に許さない』涙の訴え」、『NHK政治マガジン』、2019年9月24日 10時06分更新
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/23238.html

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