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「作者の死」?(2)(2018)

3 近代の文学と批評
 この近代の政治・経済社会は、文学とも相互作用しつつ、到来する。フランス革命の自由・平等・友愛の旗印は近代の理念をよく示している。自由で平等、自立した個人が友愛によって形成するのが近代社会である。その社会は国民国家・資本主義・科学技術を基盤にしている。この新たな人間・社会像を扱うには、従来の文学形式では十分ではない。近代文学が不可欠である。近代小説や近代詩、近代演劇はいずれもそれ以前との連続性以上に非連続性が大きい。もちろん、近代批評も同様である。なお、この「近代」はエリック・ホブズボ―ムの言う「長い19世紀」を指す。

 19世紀、神が死んだことにより、学問は根拠を超越性に求められない。自身で根拠付けなくてはならなくなる。諸領域において、細分化・専門化が進む。体系の世紀のその名の通り、それぞれの部門は自立し、体系化していくと同時に、おおらかさは消え、縄張りを守ることが暗黙のルールとなる。

 身分や階級が国民へと集約されたように、散文ジャンルは「小説(Novel)」に標準化される。小説、より正確には「近代小説(Modern Novel)」は体系の文学と呼べよう。それ以前に存在していなかったにもかかわらず、小説は文学の主権が自分たちにあると主張する。とは言うものの、小説は自ら根拠付けなければならず、批評はその代理人として社会に訴えなければならなくなる。

 近代小説は「市民の文学」であり、近代社会を再現する。その意味で、真の主役は近代社会である。代表的な作家としてギュスターヴ・フローベールやエミール・ゾラ、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンなどが挙げられる。フライの『批評の解剖』によると、登場人物は等身大で、その性格・心理・嗜好は社会が表象したものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいは本当の人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるを得なくなる。反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。また、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度でとり扱うことが要求される。ゾラは、それを実現しようと、自然科学を援用している。近代小説の短編形式は「スケッチ(Sketch)」である。

 等身大の人物が文学の主人公たり得るのはその内面性にある。さもない人物であっても、内面にはドラマがある。近代は公私の区別が原則とされている。私の領域である内面は自分だけのものであり、公が干渉することは許されない。近代小説はこの公私の区別に則っている。それは、取り扱い方こそ客観的=写実主義であるが、内面に関しては主観的=心理主義である。公の部分は客観的、私の部分は主観的に描かれる。登場人物は読者と同じ普通の人間である。心理描写を通じて読者は自分のことが描かれているようだと彼らに共感する。

 近代ナショナリズムの隆盛に詩が果たした役割は大きい。文化的ナショナリズムは国民国家につながる近代的共同体を言語の共通性に基盤を持つ。だが、近代における文学上のヘゲモニーは小説にある。詩は非主流派に追いやられる。

 詩人は自由で平等、自立した普通の近代人の一人にすぎない。けれども、その人物には詩を語るにふさわしい内面性がある。近代の原則に従い、内面を束縛する韻律や典拠などの定型の規則は放棄されなければならない。また、口にする象徴も過去から自立し、自らの主観性の表象でなければならない。詩人はこのようにして自由で平等、自立した近代人として詩を語ることができる。そのため、近代詩は非定型の抒情詩が中心となる。視点が世界の境界ないし外部に置かれる叙事詩は限定的で、その役割は散文に吸収される。この状況下、散文詩の挑戦も存在理由を証きれない。また、定型詩は伝統との格闘を通じてアイデンティティを獲得する。

 もちろん、詩の作品世界は同時代的な近代社会とは限らない。しかし、詩人は近代化の進む社会に生きている。その近代社会に対峙する自己の心象や価値観を詩人は詩を通じて表現する。小説が統合を目指すのに対し、詩は統合されえぬものを語ろうとする。けれども、詩人は寡黙である。散文化していく社会に違和感を覚えている。何かを口にしようとしながらも、口ごもる。もう一度口を開いても、言いよどみ、結局、やめてしまう。断片の繰り返しが、心理のひだをを感じさせる。だが、そうした不協和は協和を強く求める。中心を欠き、小説のようなダイナミズムではなく、移ろいやすい心理を描き出す。言い切れないことを言葉にすることの矛盾からためらい、逡巡する。それがロマン主義や象徴主義の詩人たちの姿である。

 その詩が他者と共通理解を形成するのは、内面の共通性による。近代人は誰もが内面を持っている。彼らは詩人と平等である。その共通性から、読者はまるで自分の心理が語られているのではないかと詩人に共感する。このように公私の区別や自由・平等・友愛といった近代の原理原則を近代詩は体現している。

 このように詩が受容される時代だからこそ、詩人は他の誰とも違うオリジナリティを追及する。そのために、少なからずの詩人が破滅的な人生に向かう。

 主観性指向は演劇にも及ぶ。演劇は、その視点が世界の内部にあるので、元々抒情詩的である。近代文学は個人主義に立脚し、書かれたものを黙読するのが標準的読者スタイルである。しかし、演劇は発話を伴って舞台で演じられる。演劇の近代は、演技法から見ると、明確になる。近代の最も支配的な演技理論はスタニスラフスキー・システムである。それは内面から演技をつくっていく手法で、「メソード演技」とも呼ばれる。この理論は今日においても影響を与えているので、「近代」に限定することは必ずしも適切ではない。しかし、演劇の近代化のエッセンスを認知するには参考になる。

 俳優は演技を通じて観客とコミュニケーションを行う。近代文学同様、近代演劇も新たに出現した近代人を扱う。その人物が舞台に登場する根拠はやはり内面性に求められる。かつての演劇の主役は英雄や道化で、等身大ではない。加えて、芝居には多くの決まり事があり、作者も俳優も観客もそれを共有して交歓している。

 ところが、近代演劇は、さもない近代人を中心に据え、従来のお約束は成り立たない。俳優と観客の間に新たな共通基盤を構築する必要がある。それが心理描写である。ありきたりの人物であっても、内面に眼を転ずれば、そこには奥深いドラマがある。しかも、主人公が等身大である以上、観客にもそれと共通するものがある。近代演劇において役者は、観客とのコミュニケーションのため、内面の演技に向かう。

 スタニスラフスキー・システムはこの近代演劇の理念に忠実な演技法である。役者は自分の感情や経験を想起し、登場人物のそれに応用する。一つの音を発話する際にも、その心を感じなくてはならない。自分の記憶が発話と観客との共感の根拠となる。それは近代演劇の理念が保障している。この方法論を身につけるならば、俳優はインスピレーションに頼ることなく、知力・欲求・情緒が絡み合いながら、創造的に演技を展開できる。戯曲に文字として記された真実らしさは、こうした役者のリアルな演技を通じて、舞台で展開される。

 こうした近代文学を評価する際にも、新たな批評が必要である。それは主観性に基づく形式でなければならない。そこで、アナトミーに代わり、エッセイが批評の主流となる。これは「告白(Confession)」の一種であるが、物語性に欠ける。

 告白は「僧侶の文学」であり、「私」を語る。近代的な告白は「私とは誰か」というアイデンティティを探求する。フランス革命の理念に基づくフィヒテ哲学は、文学的に突きつめれば、告白そのものである。フライの『批評の解剖』によると、告白は傾向が内向的・知的である。扱い方は主観的であるが、自己省察を続けながら、形而上学を始め多岐に亘る話題に言及、ただなんとなくそうしたかったからではなく、告白するにたる理由がそれによって明らかにされる。この告白の物語性のない短編形式が「エッセイ(Essay)」である。

 近代文学は同時代的な近代社会を創作と鑑賞の共通基盤とし、そこに生きる近代人の心理を描写する。もちろん、批評の対象は、それだけでなく、異なった時代や社会の作品も含む。エッセイの批評は、作品読解を含めた文学的主題について主観的に扱いつつ、知識に依拠して具体的・個別的な根拠を示したり、経験や記憶を内省したり、自身の価値観と照らし合わせたりして考察を記述する。それは因果性や背後関係の分析もさることながら、価値判断による評価を重んじる。近代は価値観が多様である。その価値観は主観性に委ねられている。批評は文学的主題が価値観によってどのように捉えられるかを問わねばならない。散文でありながらも、非定型の抒情詩のような視点を持っている。シャルル・ボードレールを始め詩人が優れた文芸批評の書き手であることは決して不思議ではない。近代日本文学でも正岡子規や石川啄木などの抒情詩の書き手が示唆に富む文芸批評を著わしている。

 主観性指向の近代文学は作者の自己表現である。そのため、批評は作者の内面を作品読解の鍵とする。作者の意図を探ることで作品の真の意味を解明できるのであり、それが批評にとって重要な主題である。同時代的な作者の場合、自作に関する意図を仲間内で伝えたり、公表したりする。そうした発言は作品のメッセージと鑑賞の際に理解される。また、作者をめぐるエピソードが作品鑑賞の手助けになる。二度と戻れぬ故郷への郷愁や慕い続けた女性への想い、精神的に強い影響を受けた親友への友情、幼くして亡くなった子への愛情などのエピソードが作品にこめられている。人生において直面してきた境遇や事件、出来事をめぐる作者の内面性の表象が作品である。そうした作者の発言やエピソードは批評の際に自説の根拠となり得る。エッセイの批評は、確かに、書き手の主観性が反映する。しかし、それを補強するためには客観的な根拠も必要だ。作品や時代的・社会的コンテクストをリサーチするのは当然である。加えて、発言やエピソードは事実なので、解釈の理由として他者も共有できる。

 エッセイの批評は主観性にとっての意味の表明である。自分の内部にある意見を他者が共感するには、その外部にあるものを根拠や具体例によって論証することが欠かせない。文学作品は相互関連している。批評も同様である。他の批評を参考にしたり、自分の意見と比較したりして、相互関連させつつアイデンティティを示す。その際に、通説を覆すこともある。

 作品の多義性は言語のそれからよく説明される。しかし、価値観が一元的な時代・社会では作品の意味はその規範に沿う一義的なものでなければならない。批評の批判的読解は価値観の多様性という近代の原則に保障されている。

 言うまでもなく、主観性の批評には限界がある。いくつか挙げてみよう。内面とその表現は必ずしも線的に結びつけることができない。表現がどのような作者の内面と結関連しているのかはそれほど明確ではない。実際、同じ対象に接しても、しばしば人は各々が異なる反応を示す。人間の心理はそんなに単純ではない。

 また、作者がある意図を持って書いたとしても、作品がそれを具現しているとは限らない。逆に、作者が意識していなかったところに作品の可能性を広げるものがある場合もあり得る。意図は創作の動機や文脈になったとしても、それを読者が共有していなければ鑑賞が成り立たないわけではない。

 さらに、前近代の文学を扱う場合、近代とは前提が異なっているため、誤解が生じることもある。文学に限らず過去の事象を考察する際、現在の思想潮流が反映されることは確かである。しかし、『万葉集』のような古代の詩歌は文芸共同体における美意識の交歓であり、織りこまれた出来事は架空でかまわない。それを自己表現として捉えると、事実になってしまう。

 そもそも詩人が自由に象徴を選んでいるのなら、読者もその意図に拘束されることなく解釈してよいはずである。読者も自由で平等、自立した近代人だからだ。表現は自己と一体化して捉える必要はない。これは詩に限らず、小説や演劇についても言えることだ。作者はいない。作品だけがある。この「作者の死」が現代批評の前提となる。

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