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「汚れた手」としての政治(5)(2022)

第5章 カミュの『正義の人びと』
 政治と倫理の問題を扱った戯曲は『汚れた手』に限らない。この作品と同じように、テロリズムを扱った戯曲をアルベール・カミュも書いている。それが『正義の人びと(Les Justes)』(1949)である。『汚れた手』の翌年に発表されたこの作品は実話を元にしている。

 1905年2月17日、馬車で外出中、皇帝の叔父のセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公がイヴァン・カリャーエフの投げつけた爆弾により殺害される。彼はウクライナ出身の詩人で、エスエル(SR)に属している。エスエル、すなわち「社会革命党」はナロードニキ系グループが連合して結成された非マルクス主義系の政党である。彼らはナロードニキの理論家・ニコライ・ミハイロフスキーの批判的主観主義・農本主義的社会主義の影響を受け、テロリズムを辞さない革命的ナロードニキ主義をとる。非マルクス主義系でもあり、革命におけるプロレタリアートの役割を重視しない。彼らの具体的な革命革命目標は、専制の打倒や民族自決、連邦原理による民族問題解決、民主共和国の実現、政治的自由、国家からの教会分離、普通選挙、全ロシア憲法会議の招集、累進所得税、労働立法などである。テロの実行後に逮捕されたカリャーエフは同年の内に処刑されている。

 『正義の人びと』は次のような物語である。

 爆弾テロを実行しようとカリャーエフはセルゲイ大公が乗る馬車に接近する。しかし、馬車には、大公の他に妃や甥と姪の2人の子どもも同乗している。子どもと目が合ってしまったカリャーエフは、爆弾を投げることができない。「昔、よく馬車を走らせたことがあった、故郷の、ウクライナでね。僕は風のように飛ばした。怖いものは何もなかった。本当に怖いもの知らずだったけど、ただ子供をはねとばすことだけが心配だったんだ」。

 アジトに戻った同誌たちは、カリャーエフの行動を総括、彼による再度の実行を決定する。しかし、この議論の間に彼らはそれぞれ葛藤を覚えていく。

 子どもを巻き添えにした場合、人民は自分たちをどう思うかに始まり、そもそも人民のためと言いながらも当の彼らは自分たちを支持しているのかと問い直す。また、人民の平穏な日常に羨望する者もいれば、人民に対してどのような思いを抱いて革命に臨もうとしているのかと改めて考える者もいる。テロリズムを辞さない革命運動を担う彼らの個人的な動機が浮かび上がってくる。

 カリャーエフは計画を実行し、成功する。逮捕された彼は収監され、他の囚人たちと革命談議を繰り広げる。そんなカリャーエフに大公妃が面会に来る。彼女は、夫を殺されたけれども、自分と子どもたちが同乗していたために、一旦襲撃を中止した事を知ったからだ。大公妃は、カリャーエフの特赦を願い出るつもりでいると打ち明ける。しかし、彼はその申し出を拒否する。妃が「なぜそんなに意地を張るんです? お前は自分に対してあわれみを感じたことはないんですか?」と問うのに対して、カリャーエフは「誓って言うが、僕は人を殺すために生まれたのではなかったんです」と答えている。

 カリャーエフは判決通り処刑される。その知らせを聞き、同誌が革命運動に虚しさを覚えるところで、幕が下ろされる。

 カミュはイデオロギーや理念、理想を欺瞞や倒錯と見なす傾向が認められる。この作品も同様で、『汚れた手』と違い、心理的葛藤のドラマである。確かに、主人公は自身の政治的判断・行動の結果責任を負って処刑を受け入れる。しかし、登場人物は「ルソーの人間」だけで、展開される会話は、自己欺瞞や倒錯した権力意識、、認知行動の不協和といった心理的ジレンマに満ちている。

カリャーエフ (略)そうなれば、僕たちはみな兄弟さ、正義がみんなの心を浄らかにするんだ。僕の言うことがわかるかい?
フォカ わかるよ、そいつぁ神さまの国だ。
看守 声が高いぞ。
カリャーエフ そう言っちゃいけないんだ、きょうだい。神にはなんにもできやしない。正義ってものが一番大切なんだ!

 もちろん、政治的ジレンマに心理的葛藤はつきものである。けれども、こうした懐疑や後悔、逡巡は、政治に限らず、現実の活動でも見られるだろう。この戯曲は政治的ジレンマではなく、心理的葛藤に焦点が当てられている。「ルソーの人間」だけなので、会話に発展性がない。彼らが葛藤していることはわかるが、議論が深まる前に終わってしまう。言えることはモラルジレンマに基づくローレンス・コールバーグの理論を援用して、それぞれの道徳性の発達段階を理解することくらいだ。

 アメリカの発達心理学者・道徳教育学者ローレンス・コールバーグは、ジャン・ピアジェの精神性発達理論を参考に、道徳性発達理論を提唱、その段階をめぐる道徳的判断の指標として「モラル・ジレンマ」を提示する。

 コールバーグ自身が考案した資料の例が次の「ハインツのジレンマ」である。

 病気のため危険な状態の妻を持つハインツという男がいる。彼は同じ町に住む薬剤師がその治療薬を開発したことを耳にする。薬剤師は開発費の10倍に当たる2000ドルでその薬を売り出す。ハインツは知人などから借金をしたが、その半分しか工面できない。彼は薬剤師に事情を話し、薬を、値引き、あるいは後払いできないかと懇願する。しかし、薬剤師は金儲けのためにこの薬を開発したのだからとそれを断る。結局、ハインツは薬局に押し入り、妻のためにその薬を盗む。

 以上のような資料を読ませた上で、子どもに、ハインツのしたことの善し悪しを理由をつけて答えさせるのがモラル・ジレンマである。

 重要なのはよいか悪いかではなく、その理由である。それを通じて個々の子どもの道徳性の発達が確かめられる。そこで、コールバーグは道徳的判断のレベルを「慣習以前のレベル」・「慣習的レベル」・「脱慣習的レベル」の三つに大別する。その上で、それを6つの段階に分けている。第1のレベルは「罰と服従への志向」・「道具主義的相対主義への志向」、第2のレベルは「対人的同調あるいは『よい子』への志向」・「『法と秩序』維持への志向」、第3のレベルは「社会契約的遵法への志向」・「普遍的な倫理的原理への志向」によって各々構成されている。話す理由をこれと照らし合わせてその子がどの段階にあるかを判断する。

 現在では、個々の子どもの道徳性の発達段階を確認するために使われているだけではない。資料について議論をして道徳性を高めたり、理解を共有したりするモラル・ジレンマ授業に発展している。ジョン・ロールズの批判者としても著名な政治哲学者マイケル・サンデルが『ハーバード白熱教室』で見せた授業スタイルがそれである。なお、コールバーグはサンデルやロールズのハーバード大学の同僚である。

 登場人物はほぼ第1と第2のレベルにとどまっている。例を挙げると、犠牲が出ようとも目的のために実行すべきという認知は第2段階の「道具主義的相対主義への志向」、人民からの支持云々は第3段階の「対人的同調あるいは『よい子』への志向」である。主人公は第5段階の「社会契約的遵法への志向」を有しながらも、第4段階の「『法と秩序』維持への志向」から抜け出さない。

 カミュの政治についての考えが理論的に示されているのが『反抗的人間(L'Homme révolté)』(1951)である。これはカミュ=サルトル論争の発端になった作品として知られている。

 カミュは『反抗的人間』において「反抗」という政治的態度を肯定する。それは虐げられてきた奴隷が主人に対して「ノン」を突きつける態度で、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在を示している。その外のものを「否」として退け、内にあるものを「ウイ」として守ろうとする。それは自分の中にある価値観に関する意識である。

 「不条理」の体験は個人的な苦悩にとどまる。一方、「反抗」は他者に対する圧迫を目撃することから沸き起こる。それは個人を超えているため、連帯が生まれる。けれども、『歴史を顧みると、「無垢への郷愁」である「反抗」から起こった革命は、必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく。

 「反抗」を肯定しつつ、暴力を否定する『反抗的人間』はエドマンド・バークの『フランス革命の省察』の主張と共通点が認められる。カミュは、その意味で、保守主義者である。彼は、『正義の人びと』の主人公同様、第5段階の認知を持ちながらも、結局、第4段階にとどまる。

 カミュは自由を抑圧された人が反抗することは当然であり、それを見て共感することも自然なことと認める。しかし、暴力化する時、行動を正当化するための認知の歪みが生じる。彼はそうしたごまかしを許せない。

 カミュはスポンタネウスな的反抗行やその連帯を「人間的自然」として是認する。けれども、そこに心理的操作が発生すると、否認する。暴力は言うに及ばず、それを結びつけるイデオロギーや理念を必要とするので、組織化も伴わざるを得ない。彼にとって政治における組織化は悪だということになる。

 1952年、サルトルが編集長を務める『現代』誌79号において、フランシス・ジャンソンが「アルベール・カミュ あるいは反抗心」を発表、『反抗的人間』を批判する。カミュは、それに対して、「『現代』の編集者への手紙」を同誌に書き送る。これに応えてサルトルは「アルベール・カミュに答える」、並びにジャンソンは「遠慮なく言えば…」を執筆する。この3つの論文は『現代』82号に掲載される。この論争をきっかけに、カミュとサルトルは絶交にいたる。

 カミュは、共産主義を正当化するなら、ソ連の収容所について説明すべきだと主張する。サルトルらはさまざまなことを批判する反面、ソ連に甘い二重基準だというわけだ。

 他方、サルトルらは、カミュの論考が「文学的」で、「人間的自然」を始め概念が曖昧だと指摘する。また、『異邦人』の作者はあくまでブルジョワであり、その階級から自説を述べている。その上で、実存主義の旗手は不条理の小説家が「モラリズム」に陥り、「美徳の暴力をふるっている」と批判している。自由の抑圧に対する反抗やその連帯は正しいが、暴力に訴えることは正しくないとは一般的な正論である。しかし、そうした「美徳」が圧政の暴力に加担しているというわけだ。

 近代は政教分離である。政治的判断の際に個人において心理的葛藤が生じることは少なくない。しかし、政治は公的である。その認知行動が功罪を含めて政治的に何をもたらしたのか。私的領域に焦点を当てるカミュにはそれは射程外である。

 ただ、カミュは、巻き添えをめぐる心理的葛藤か政治的暴力の問題を展開する。これはテロの他にも、軍によるテロリスト掃討を含めた戦闘行為においてもしばしば起きている。そうした意味においてカミュの問題提起も決して古びてはいない。

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