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ジェネレーションXの時代、あるいはカスタマイズとコミュニティ(4)(2008)

第5章 ジェネレーションXとアイデンティティ
 これだけゲームの映像・ストーリーが洗練されてくると、すでに世間から認知されたメディアとの間で、マルチメディア化の動きも始まる。「DOOM」や「バイオハザード(Resident Evil)」など多くのゲームが映画化されている。それだけでなく、一般のゲーマーが映画化する「マシニマ(Machinima)」もYouTubeの登場により、試みられている。オリジナルに対するリスペクトが明確である作品に関しては、「Red VS Blue」(2003)のように、著作権の問題が大目に見られるケースも少なくない。

 そもそも、マシニマがオリジナルを広めてくれる役割を果たすこともあるので、著作所有者の利益に反するとは限らない。新しい技術や風潮を「問題(Problem)」と見なすか、「挑戦(Challenge)」と捉えるかによって認識・対応が分かれる。前者ではなく、後者として受けとめるほうが既存の勢力にとっても建設的な発展が望めるだろう。

 なお、日本では、評価できるマシニマはほとんどないと言ってよい状態で、ここでもアメリカなどとのゲームへの接し方の違いが見られる。確かに、日本からもユニークな動画がYouTubeやニコニコ動画に投稿されているし、ビデオ・クリップやCMにもユーザーによるプロ顔負けの動画も認められる。企業やアーティストがそれを募集したり、公認したりして、採用しているケースもあるが、いずれもストーリー性には乏しい。アメリカでは、癒しのために、9・11をめぐるゲームが考案されている。何も、9・11の状況をゲームにする必要はない。各メディアは市民権獲得の過程で、「こんなことだってできる」とそのメディアならではの固有性を食み出す。こうしたインフレーションは、社会的認知を得た後に、意識的に縮小させていかないと、本来のよさを見失い、ルーティンな作品を垂れ流すようになってしまう。一方、日本では、広報や癒しの役割をアニメやマンガが担っている。日本政府の拉致問題対策本部は、2008年3月28日、子供や若者への教化を目的に、拉致事件に関するアニメ『めぐみ』の無料配信を「政府インターネットテレビ」で始めている。これは双葉社より刊行されているマンガ『めぐみ』のアニメ化作品である。さらに、このアニメはコピーフリーのDVDとしても製作され、全国の地方自治体などに無料で配布し、英語・中国語・韓国語版も用意されている。

 FPSにしろ、EPGにしろ、アニメにしろ、マンガにしろ、ロマンス形式である点は共通している。日米の違いはあるものの、これらが市民権を獲得したのはアイデンティティ・ポリティクスの時代という背景があるだろう。

 ゲームは娯楽から文化、さらに表現の場へ発展してきたが、ジェネレーションXがこの表現としてのゲームに及ぼした功績は大きい。90年代以降のゴッドゲームとFPSの流行はModとMMOの確立に向かう。前者は自分らしさ、後者は共同意識を刺戟する。ジェネレーションXがゲームを通じてもたらしたのはカスタマイズとコミュニティである。自己表現しつつ、それを公表する場に参加する。それはゲームにおけるYouTube化・Facebook化である。

 GoogleはジェネレーションXの好みを最も理解しているウェブの一つである。調査会社コムスコア・ジャパンが2007年9月12日に発表した調査によると、日本国内の検索シェア、ヤフーが47.4%、グーグル35% であるけれども、欧米ではGoogleの方が優勢である。「iGoogle」の通り、Googleではトップページのレイアウトを自分らしくカスタマイズできる。また、Google EarthやGoogle Map、Google Street Viewなどはまるでゲームでメタバースを楽しむように、世界を体感することが可能である。

 ジェネレーションXの性向は、自己主張や自己表現、自己実現への固執が似ているものの、日本においてそれほど顕著ではない。まったく見られないというわけではない。カスタマイズに積極的ではなく、自律的たらんとするよりも、あるいは自分から話しかけてコミュニケーションをとろうとするよりも、「お客様」根性を満足させてくれる「きめ細やかなサービス」提供を好む。そんな傾向をうまくつかんでいるのがAlbertの提供する「感性検索」である。具体的なキーワードがわからない場合でも、「感性」にフィットする画像やフレーズなどを選んでいくだけで検索可能であると同時に、何を探したいか自分でもわからない潜在ニーズを発見できる。Albertは、レコメンドエンジンと感性検索を用いたショッピングポータルサイト「見つかる.jp」を2008年4月にオープンしている。

 SNSにおいても、国内最大のmixiと英語による代表的なサイトFacebookの間でコミュニケーションの違いが見られる。前者は日記中心であり、後者は友人同士の交流が主である。日本のSNSは長いことログインしていなくても、毎日、最新情報に関するメールが送信されてくるが、Facebookでは、自分のページに何か変化があったときなどしかメールが送られてこない。

 言うまでもなく、こうしたサービスが国際的なセールス・ポイントになることもありうる。けれども、1997年、MKタクシーが東京に進出した際、ドライバーがわざわざドアを開けてくれるようなお客様思いのサービスは必ずしも歓迎されていない。国外だからと言ってそうだと決めつけてはいけないとしても、国内でさえこのようなこともあるのだから、細やかであれば、お客は誰もが喜んでくれるわけではない。

 また、90年代後半、日本のメーカーがゲームのさらなる可能性を示していることを付記しておくべきだろう。バンダイが1996年末に発売した「たまごっち」では、ペットロス現象さえおきている。たまごっちはプレーヤーの情緒に訴える初めてのゲームと呼んでいいだろう。人は、ゲームをして、本や映画を見るのと同様、涙を流すことがあるのだと知る。それまで、泣けるゲームというのは存在していない。

 加えて、Wiiに見られる新たなインタフェース開発は、ゲームにおける3Dを用いたリアリズムが曲がり角にきていることも影響している。当初のゲームは記号性の強い絵だったが、モーション・キャプチャ技術により身体の動きをリアルに再現することが可能になる。ゲーム界にも3Dではなく、もはやハイビジョンの季節が到来している。ところが、その技術進歩は「不気味の谷現象(Uncanny valley)」を招く。1970年、ロボット工学者の森政弘は、ロボットの概観や動作を人間に近づけていくと、ある時点からそれが不気味な印象を抱かせるようになることを発見する。その後、映画やゲームなどにおいてコンピュータ・グラフィックでつくられた人間がリアルに再現されていくと、あたかも死体が動いているような不気味さを見る人に感じさせることも明らかになる。

 この不気味の谷は近代におけるリアルさ自体に対する根本的な態度変更を促している。近代リアリズムは記号ではなく、再現をリアルの方向性と信じてきたが、必ずしもそれはリアリティを受け手に与えない。

 ジャーナリズムはリアリティ・テレビではないとニューヨーク・タイムズ紙のクリス・ヘッジズは、『戦争の甘い誘惑』において、「官製映像は戦争の現実をほとんど伝えていない」と次のように批判している。

 選ばれた代表の記者は軍によってガイドされ、我が兵士たちはパックの食事をとり、化学兵器に備えて演習をし、砂漠のなかではバケツでシャワーすると原稿に書く。スペクタクルとしての戦争、エンターテインメントとしての戦争である。こうした映像と記事が意図するのは、国民に国家について好感を抱かせることにある。イラク国境で破砕性爆弾が炸裂し、イラクの家族や兵士が粉々に飛び散っているのだが、彼らは顔も名もない幻影に過ぎない。

 奇しくも、ゲームは記号と再現の微妙な混合と意味づけがリアルさを感じさせることを教えてくれている。

 このようにゲームは転換期を迎えているが、ジェネレーションXは新たな岐路に立たされている。アイデンティティ・ポリティクスの時代が過ぎ去ろうとしている。

 他者と接触する際に、アイデンティティ探求が始まるものだが、ジェネレーションXではそうではない。イデオロギー・ポリティクスが終焉を迎え、世界認識の構図があやふやとなってしまう。ジェネレーションXはアイデンティティを確認しようとするけれども、その際、それをイデオロギーのような外部にではなく、自意識の優位さによって独善的に構築する。こうありたい、もしくはこうあらねばならないという結果から自分らしさを逆アセンブルする願望充足のために、ロマンスが選ばれる。近代的なロマンスは、村上春樹の『ノルウェイの森』が示している通り、最初に結果が提示され、物語はそれに向けて展開される円環構造を有している。終わりが目的であり、すべての要素はその達成に従属する。この世界は決定論に支配され、それを決めるのは自意識である。ジェネレーションXの年齢層が世界的に村上春樹を受け入れるのはこれを具現しているからである。

 みんな自己、自己言いよる。明らかにぼくらの若いころに比べれば、自己を見つめたがる。(略)自己実現に、生きがい発見。そんなことはしなくともよろしい。だって、いま、生きているやないの。
 自己表現やら自分探しが流行しているのも、決定論的な考え方がいまの世を支配しているためだろう。こういうふうに生きたから、こうなる。だが、ほとんどは結果論.因果関係などはない.もし、自分の目の前にあらかじめ決まった道があって、そこを進んでいくのが人生だとしたら、ちっともおもしろくなかろう。自分らしさという枠がある。それ自身、もう自分らしくない。

 自分の物語は、生きていくうちにつくられていくものだ。あらかじめ筋書きを用意して、歩んでいくなんて。ぼくは、枠にはまったクソおもしろくもない物語の主人公などにはなりたくない。
(森毅『生きがいに自己実現なんていらん、だっていま生きているんやから』)

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