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『オブローモフ』、あるいは怠惰の文学(6)(2004)

第六章 労働と自由
 ドイツは、第一次世界大戦に敗北して以降、一九二三年を頂点とする歴史的なハイパー・インフレに襲われる。経済が破綻し、社会が混乱する中、ナチス、すなわち国家社会主義ドイツ労働者党が産声をあげる。

 一九一九年一月にアントン・ドレクスラーがミュンヘンで結党し、最初はドイツ労働者党だったが、一九二〇年ドイツ国民社会党と合併して、「国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」に改名する。彼らは「ナチス(Nazis)」の通称で知られることになる。

 ところが、正式党員はわずか二五人で、しかもそのうちの六人が積極的に党の活動に取り組んでいたにすぎない。この弱小政党に、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーという芸術家志望の人物が入党してから、状況が一変する。

 依然として狂信的政党にありがちな浅はかで支離滅裂な綱領であったけれども、彼はあっという間に党首へと昇進する。失業を背景に、ナチスの運動は急速に発展し、党は多数の人々を吸収して膨張する。その中には解雇された家事使用人、破産に瀕した商店主や小企業家、極貧にあえぐ農民、社会民主党・共産党に幻滅した労働者、混乱の戦後期に育ち、生活に必要な収入を得ることができない若者の大群が含まれている。

 一九三〇年九月の国会選挙で、ナチスは六五〇万票を集め、一八%以上の得票率を占め、一〇七議席を獲得し、一四八議席の社会民主党に次ぐ第二党となる。世界恐慌到来前の一九二八年の国会選挙においては、獲得投票数八〇万票、得票率約二・五%、議席数一二である。

 さらに、一九三二年七月の国会選挙になると、ナチスは一三七〇万票、得票率三七・四%、総議席数六七〇のうちの二三〇議席を占める。絶対過半数に達しなかったが、ナチスは第一党である。

 新たな国会のための総選挙を数日後に控えていた一九三三年二月二七日の夜、国会議事堂が何者かの放火によって炎上したのをきっかけにして、共産党や社会民主党、引き続き、その他の全政党が非合法化され、ナチスが唯一の合法政党となる。

 一九三三年三月二四日の全権委任法によって、国会は立法権を放棄し、その権限を政府に委譲する。この全権委任法により、ヴァイマール体制の共和制は終焉を迎える。ヒトラー政権は、いかなる内容であっても、ただちに法律として発布することができることになり、独裁体制を強固にする。一二月一日の法令によって、ナチスと国家は同一化される。

 当時、最も困難な問題は失業である。この時期ドイツの産業は、全能力の五八%しか操業できず、失業者数は六〇〇万から七〇〇万人と見積もられている。ナチスは極端な軍産複合によって雇用を確保して、失業率を事実上〇%にし、失業問題を解決する。商業・労働・農業・教育・文化の分野で、すべての組織がナチスの支配・命令に置かれる。「ナチズムはドイツ社会の諸問題を解決した。それは一〇〇〇年に亘って存続するだろう」(アドルフ・ヒトラー)。

 プロテスタント教会にも、ナチズムの教義が導入されたが、ユダヤ人は特別法によって法の保護から排除される。ナチスが政権を握った直後から、強制収容所がもう設立されている。

 秘密警察のゲシュタポが、共産党員や社会主義者、共産主義者、宗教者、エホバの証人、ユダヤ人など政治的敵対者を「保護する」という名目で監禁し、また、刑事警察のクリポは、常習犯罪者ならびにロム、同性愛者、売春婦などを「予防的逮捕」と称して拘留する。収容所の運営は、親衛隊(SS)の保安部が行っている。用意周到に準備を整えた上で、ナチスは、一九三八年一一月九日、「水晶の夜(Kristallnacht)」を実行する。

 一九四〇年五月、SS隊長でゲシュタポ長官のハインリッヒ・ヒムラーは、ポーランドのクラクフの西約五〇キロメートル、すなわちビスワ川の近くに位置するアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)に、占領下ポーランドとドイツ国内の収容所から送られてくる政治囚のための強制収容所を建設させる。

 「アウシュヴィッツ(Auschwitz)」という名称は、オシフィエンチム近郊に広がるこの収容所群の全体を指して、一般に用いられている。隣村ビルケナウ(ポーランド名ブジェジンカ)に広がる施設は、「アウシュヴィッツ第二収容所」と呼ばれ、四一年一〇月から稼働し、翌年八月には女子収容棟が併設される。

 ビルケナウには、シャワー室に見せかけた四つのガス室、死体を灰にするための四個の焼却炉が設置されている。さらに、アウシュヴィッツを中心にして、強制労働を目的とした四〇ほどの付属収容所があり、これらは「アウシュヴィッツ第三収容所」と呼ばれる。
ナチスはそのアウシュヴィッツ収容所の入口に次のスローガンを掲げる。

 ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)

 私自身も、例えば、強制収容所において、この目で見たある若い女性の死を思い出す。その話は単純であり、多くを語る必要がないのだが、にもかかわらず、あたかも創作されたごとくの詩的な響きを持っているように思われる。
 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。にもかかわらず、私と語った時、彼女は快活だった。「私をこんなひどい目に遭わせてくれた運命に対して私は感謝しています」と彼女は、何の修辞性もなしに、私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからです」。その最期の日に彼女は完全に内面の世界へ向いていた。「あそこにある樹はひとりぼっちの私のたった一人のお友達です」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹がまさに花盛りだった。屈んで病人の寝台から外を見ると、バラックの病舎の小さな窓を通して、ちょうど二本のロウソクのような花をつけた緑の枝があった。「この樹とよくお話をするんです」と彼女は言った。私はその言葉の意味がわからず、ちょっとまごついた。彼女は虚妄状態に陥り、幻覚を見ているのだろうか?不思議に思い、「樹はあなたに何かを返事をしましたか?──しましたって!──では、何と樹は言ったのですか?」と私は彼女に尋ねた。彼女はこう答えた。「あの樹はこう申しました。私はここにいる──私は──ここに──いる。私はいる。永遠の命…」
(ヴィクトル・エミール・フランクル『夜と霧』)
〈了〉
参照文献
『ロシア文学全集』26、日本ブック・クラブ、1971年
『世界の文学』15、朝日新聞社、1999年

井筒俊彦、『ロシア的人間』、中公文庫、1989年
今村仁司編、『現代思想を読む事典』、講談社現代新書、1988年
川崎浹、『ロシアのユーモア』、講談社選書メチエ、1999年
小滝透、『神の世界史キリスト教』、川出書房新書、1998年
城塚登、『ヘーゲル』、講談社学術文庫、1997年
クリスティ・デイビス=安部剛、『エスニックジョーク』、講談社選書メチエ、2003年
森毅、『ひとりで渡ればあぶなくない』、ちくま文庫、1989年
同、『ぼちぼちいこか』、実業之日本社、1998年
同、『時代の寸法』、青土社、1998年
マックス・ヴェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、大塚久雄訳、岩波文庫、1989年
ジョン・K・ガルブレイス、『不確実性の時代』上下、斉藤精一郎訳、講談社文庫、1983年
アレクサンドル・コジェーヴ、『ヘーゲル読解入門』。 上妻精訳、国文社、1985年
ゴーリキイ、『どん底、』、中村伯葉訳、岩波文庫、1961年
ゴンチャロフ、『オブローモフ』上中下、米川正夫訳、岩波文庫、1979年
ドブロリューボフ、『オブローモフ主義とは何か』、金子幸彦訳。岩波文庫、1978年
V・E・フランクル、『夜と霧』。 霜山徳爾訳、みすず書房、1985年

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