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方法の世紀を超えて(2013)

方法の世紀を超えて
Saveun Satow
Jun. 05, 2013

「後代の人は、二十世紀をなんとよぶだろう。現代人のなかにはそれを方法の世紀とよびたがる人もあろうが、まあ、それはこれからの問題である」。
森毅『数学の歴史』

 1970年代からの学問における潮流の一つとして「学際性」が挙げられる。学際的研究に始まり、学際的分野の新設へと進展している。動物倫理学や人口経済学、資源人類学などがそうした例であろう。

 既存の学問体系の閉塞感の打破により踏み出された横断性志向だったが、思いもよらぬ効果がもたらされる。学際性をとるだけで創造的な知見の生まれことが明らかになる。

 複数の分野を融合すれば、調整が不可欠であるから、既存の思考内容・形式も再構成せざるを得ない。メーン・ジャンルを細分化させてサブ・ジャンルをつくり、専門化・高度化させる。それよりもサブ・ジャンル同士を組み合わせた方が新たな発見・発明が可能になる。学際志向がものの見方を大いに広げていることは確かだが、その流行にはこうした事情も作用している。

 専門家は専門性を追求しなければ、その領域を発展させられない。しかし、それは自己目的化という倒錯にはまる危うさがある。学際性は現代の学問がタコツボに陥らないためのアラートとしても機能している。

 突き詰めていくと先鋭化する。その意義は認められるとしても、セセグメント化が進めば、行き詰まりに直面することは容易に想像がつく。90年代に入ってからのノーベル経済学賞の受賞者を見ると、経済学がそうした危機感を持っていることがわかる。経済学賞と言うよりも、「社会科学賞」の方がふさわしくなりつつある。その最たる例が94年のゲーム理論のジョン・ナッシュや98年の経済倫理学のアマルティア・センの受賞である。

 理論は他者の間で理解を共有するために必要である。社会や認識の急激な変化に伴って潜在的・顕在的に見出される課題への対応がそうした拡張を必要としている。もちろん、そのような変容は何も現代に限った事態ではない。

 19世紀後半から20世紀前半にも起きており、体系を新築するはるかにスケールが大きく、ダイナミックな学問潮流が生じている。ニュートン力学を根本的に見直した量子力学や国民所得の増大をテーマにしたマクロ経済学、言語を記号の関係から捉える構造言語学などがその典型である。

 今日の動向は、その頃と比べれば、スケールが小さい。主眼は体系よりも方法にある。言わば、新築ではなく、改築である。ただ、こうしたやりくりの方が変化に迅速に対応できる。新築の家は慣れるまで住みにくいものだ。

 反面、改築を繰り返していると、建物の内部が迷路と化してしまう危険性もある。越境によるサブ・ジャンルの新設が生産的と評価されれば、それが繰り返され、横断自体が目的化する。学際性が手段であることを忘れて自己目的になると、そういった複雑化が生じる。

 学際化の中で複雑系が脚光を浴びたのは決して偶然ではない。それは皮肉な体現でもあるからだ。学問は内外からの要請により新たな潮流を生み出さずにはいられない。けれども、慣れと飽きの蓄積に伴い、自己目的化に陥る危険性をはらんでいる。その回避に自覚的である必要がある。新たな課題に対応するのに方法では不十分な時代も到来するであろう。

 諸理論を統合するメタ理論の登場が期待される。生物に関する知見が究極要因を与えてくれる現代進化論によって再構成されている。至近要因による説明から脱却するため、政治学や経済学などでも進化論を導入する動きが見られる。現代進化論は学際性をまとめられるメタ理論の一つとして認知されつつある。

 進化論に限らず、学際性を超えるメタ理論が求められていることは確かだ。少なくとも、迷路を見やすくする工夫は必要だろう。経路を見通せる地図、すなわち可視化が要る。続々と登場する方法をどのように位置づけ、統合するかの編成作業が不可欠だ。ただ、統合の世紀や編成の世紀と呼ばれるかどうかはこれからの問題である。
〈了〉
参照文献
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年

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