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日本型マスメディア万能時代の終焉(2)(2009)

第4章 日本型マスメディアの戦後
 大政翼賛会体制下は、言論機関としてのあるべき姿はともかく、新聞は言行一致している。しかし、戦後は言論の自由が憲法で保障され、それを自ら尊重しておかなければならないはずであるにもかかわらず、反する経営姿勢で産業的発展を遂げている。新聞拡張員の不快で厚かましい押し売りまがいの勧誘がそれをよく物語っている。

 しかも、広告主と新聞を仲介するのは広告代理店である。広告業界は全国的にはそれ以上の寡占状態にある。広告代理店も、新聞業界の発達につれ、それ以上に成長する。

 1950年代に入って、ラジオとテレビの民間放送がスタートする。その際、放送局設立にも新聞社や広告代理店が積極的に関与している。

 ラジオ局は新聞社や地元の有力企業などが主な出資者になって生まれている。中には、文化放送のように、財団法人によって開局されたケースもある。同局は、1952年、カトリック修道院「聖パウロ修道会」が布教を目的に設立した財団法人「日本文化放送協会」によって設立されている。1951年、郵政省から許認可を受けた16社のうち、中部日本放送が最初に放送を開始する。電波を扱う放送は許認可事業であるため、事実上、一県一紙制度が踏襲される。東京や名古屋、大阪などの大都市圏には複数の出力の強い広域放送局、他の府県では県域放送局が開局される。ただし、千葉県や埼玉県、群馬県、三重県など民間AM放送局がない県もある。

 1954年、日本経済新聞などが出資した日本短波放送がスタートする。同局は国内唯一の日系系列のラジオ局であると同時に、世界で唯一の商業短波放送である。短波放送であるため、第1放送と第2放送の二波を持ち、全国を放送エリアとしてカバーする。コンテンツは専門性が強く、株式、先物取引、中央競馬、医療、無線・BCL、大学受験講座、百万人の英語、アナウンサー養成講座など中波とは一線を画す番組で、コアなファンを獲得している。78年にラジオたんぱ、さらに2004年、ラジオNIKKEIに愛称を変更している。

 本放送が70年代からであったため、FM局にも、新聞社やテレビ局などが出資しているケースが多く、他媒体との晋密度は局によって異なる。FM岩手はテレビ岩手と従来より密接な関係にあったが、2006年、同社はテレビ岩手の本社ビル内に社屋を移転している。FM放送は、1970年、FM東京(現TOKYO FM)の開局を皮切りに各地でスタートする。エフエム東京は1960年から東海大学が実験放送を続けていたFM東海を前身としており、現在でも同大学が筆頭株主である。FMは使用周波数の特性上、送信所から届く距離が近いため、県域放送とならざるを得ず、コミュニティ局を除いても、AM局以上の数の放送局が活動している。ただし、全国の多くの(県域)FM局は全国FM放送協議会(JFN)に加盟しており、主に地方局がそのネットワークを通じて番組配信を受けている。

 1953年8月28日午前11時20分、日本テレビは日本最初の民間テレビ放送を開始する。正力松太郎読売新聞社社主が放送免許の申請を行ったこの放送局は、開局からわずか7ヶ月で黒字に達し、58年9月に、マスメディアとして初めて東京証券取引所1部上場を果たしている。それはテレビが日本でもマスメディアの王様として君臨する予兆であろう。

 1955年から1960年にかけて、新聞社や既存ラジオ局などが中心となって次々とテレビ局を開局させる。1970年代半ばには、先に言及した全国紙を中核とするマスメディア・グループが形作られ、そこに属するテレビ局をキー・ステーションとして地方局との間で民間放送網を形成している。

 言うまでもなく、このマスメディア・グループの首が据わるまでには紆余曲折がある。
 1957年、富士テレビジョン(現フジテレビジョン)がニッポン放送と文化放送を中心に、映画会社を呼びこみ、設立される。1956年に文化放送が株式会社化される際に社長に就任して水野成夫が初代社長び選ばれ、さらに、彼は、58年、産経新聞社社長をしている。在京の新聞・ラジオ・テレビを握ったため、彼は「マスコミ三冠王」と呼ばれることになるが、これを基礎として後のフジサンケイグループへと発展していく。

 水野は、1940年に軍部の協力を得て創立された大日本再生製紙の幹部を経た後、1938年に成立された国策パルプ工業株式会社に同社が1945年11月に吸収合併されると、1951年に社長、1960年には会長に就任している。製紙業は、戦時中、新聞統制にかかわる産業である。ジャーナリストではなく、それを統制する側に近い人物がマスメディアのグループを掌握したというわけだ。

 また、現在、テレビ朝日は朝日新聞系列であるが、開局当時は日経が最大の新聞資本である。日本教育テレビとして創立したけれども、日経が東京12チャンネルの救済に乗り出した際に、朝日新聞社が傘下に収めている。その東京12チャンネルは、1964年、財団法人日本科学技術振興財団によって設立された教育専門チャンネルであったが、1969年、深刻な経営危機に陥る。財界の後押しによって、日経が出資することとなり、それを捻出するために、NET株を朝日新聞社に売却する。他にも、1973年、日本テレビとTBSの新聞資本の統一が読売・朝日・毎日の間で合意、翌年、TBSの新聞資本が毎日新聞社のみになっている。

 このように決してすんなりとマスメディア・グループが築かれたわけではない。

 さらに、記者クラブ制も復活する。これは政府や国会、行政機関、自治体、各種組織・団体などを担当する記者がお互いの親睦を高めるための自治会である。もちろん、これは建前であって、実態はそうではない。特定の報道機関のみが参加できず、ニュース・ソースとの接触をほぼ独占し、一見さんお断りの極めて閉鎖的な制度である。このアクセス制限によりニュースの入手こそが報道機関の仕事ということになり、いわゆる発表ジャーナリズムにとどまり、検証性や分析性に乏しい日本のメディアのお粗末な現状の一因である。

 現在の記者クラブは、戦時下に内務省指導によって結成された「日本新聞会」とは別組織ということになっている。しかし、現行の制度は、日本新聞会の傾向を受け継いでおり、それ以前の自主的な記者クラブとは異なっている。言論統制の前は、登録制がなく、クラブと言うよりもサロンであって、相当ゆるやかな集合体であり、そもそも複数の会が併存し、一元的ではない。戦後の記者クラブにはこうした風通しのよさはない。しかし、規制は既存メディアにとっては既得権益の保障につながる。ジャーナリストの資格は、その結果、専門的な学習機関で体系的・総合的にジャーナリズムを学んだ後、現場で訓練・経験を積むのではなく、マスメディア企業に就職し、クラブ会員となることに堕してしまう。

第5章 軍隊的な感覚
 戦時中の言論統制政策によって生まれた制度が戦後になっても維持・強化されていくが、そうさせたのはたんに独占や寡占のもたらす甘味だけではない。軍隊的な感覚が戦前以上に戦後に全国中に蔓延したことを見逃してはならない。

 森毅京都大学名誉教授は、『景気の還暦』において、戦時体制が戦後に与えて影響について、次のように記している。

 やがて戦争とともに、すべての人が戦時企業社会に組みこまれるようになった。たとえば、稲垣足穂や富士正晴のように、およそ企業にそぐわない貧乏文士だって、ちゃんと徴用されている。
 学校教育というものが、国民体制として組織されたのだって戦争中である。企業国家日本の体制は戦争中につくられたようなところがある。
 それに、みんなが軍隊体験をしたものだから、会社も組合も正当も、軍隊的な感覚でものを語るようになる。反戦を主張していた政党の指導者まで、委員長をやめるときの言葉が、「これからは一兵卒として戦う」だったのには、笑ってしまった。「企業戦士」がつくられたのは、戦時国民体制によってだったのではないか。
 そう考えると、戦後民主主義だって、たかがイデオロギーだったのではないかと思えてくる。高度経済成長期で生活様式が変わったところで、それは企業社会の流れに適応しただけのような気がする。

 さらに、御厨貴東京大学教授も、『エリートと教育』において、戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。

 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。

 この状況は日本だけでなく、ある程度、参戦国の間で共通している。「軍隊的な感覚」が戦後を支配したのであり、経済発展もその産物である。60年代に登場した新左翼運動を戦後民主主義の矛盾などとしたり顔で解説・批難する論調がしばしば見られるが、極めて表層的な見方でしかない。それではなぜ世界的な同時代性を持ちえたかの説明にならない。ベビー・ブーマーは、パックス・アメリカーナ、すなわち未曾有の豊かさと狭量なマッカーシズムに覆われた社会で成長している。その彼らが60年代に入り、怒れる若者と化して、社会に抗議の声を挙げ始める。経済的に恵まれた環境で育った子供たちがなぜそんな行動をとるのか親たちには理解できない。しかし、彼らの反抗に理由がなかったわけではない。軍隊的な社会の空気に対し、自由を求めている。戦争中、程度の差はあったものの、各国共に国家総動員体制を敷き、老若男女を問わず、人々を戦時体制へと組みこむ。それは一部の人々の間でのみ共有されていた「軍隊的な感覚」が国全体へと行き渡る契機となる。なおかつ、冷戦というイデオロギー的な戦時体制はこうして維持される。ベビー・ブーマーの反抗は、そのため、国境を超えて類似し、時に、連帯している。

 この統制体制と軍隊的な感覚の相互作用が日本型マスメディアの戦後の発展を推進した重要な要因であるが、それは次に示す吉田秀雄による電通の「おに十則」に如実に見られる。

一 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
二 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
三 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
四 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
五 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
六 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
七 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
八 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
九 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
十 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 このほとんど帝国陸軍を思い起こさせる社訓を考案した吉田秀雄は、1947年、上田碩三3代社長がGHQの改正公職追放令に該当したのに伴い、社長に就任している。これは公職追放の適用範囲が有力企業の幹部にまで拡大する法令である。吉田は公職追放という戦後の到来を印象付ける出来事により43歳という若さで電通の社長に就任したが、その成功はむしろ戦時的なるものによって可能となっている。日本型マスメディアを最も体現した人物の一人だと言っていいだろう。

 なお、上田前社長は、1949年、親友のマイルス・ボーンUPI通信社極東担当副社長他三名と共に東京湾浦安沖で遭難し、死亡している。日米のマスコミ界の有志が二人の死を悼み、1950年、ピュリツァー賞に倣い、国際報道に貢献した報道者を表彰する目的で、ボーン・上田記念国際記者賞を設けている。

 80年代、日本社会は高度消費社会に突入し、日本型マスメディアは絶頂期を迎える。それは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル)の時代に呼応している。
 しかし、それは、かつての皇軍同様、勝っている間は機能できるが、一度負け始めると歯止めがきかない。独占や寡占体制は、逃げ道がないため、状況の変化が起きた際に、対応するのが難しい。90年代に入ると、日本型マスメディアは凋落していく。

 〈男味〉の代表例は、太平洋戦争中の帝国陸軍だろう。戦後は、旧帝国陸軍の精神的な残党が、そのメンタリティで経済戦争に突入したのだと言われている。敵から見ると、旧日本軍は進む道を決めたら、他の道の可能性を考えようとしなかったので、非常に扱いやすかったらしい。一筋にやっていくことが最高の価値である、と考えたのが帝国陸軍だった。みんながこうと決めたときに他のことを考える奴は放り出される。〈男味〉の立場からすると足並みを乱すことはゆゆしきことなのだ。
 しかし、〈男味〉ではゲームには勝てない。ゲームというのは、状況によって態度や決定が変わるのが当然なのだ。あいつはグーを出し始めたらグーを出し続けるとわかってしまったら、もう絶対に勝てるわけがない。グーもチョキもパー も出すかも知れないから、ゲームが成立するのだ。
(森毅『男味と女味─集中と分散について』)

第6章 1930年体制の後に
 バブル経済が崩壊し、景気が後退してからも、マスメディア業界はそれに急激に直面してはいない。人件費抑制のために、工場を海外移転したとしても、その商品の広告は国内で行わざるをえない。中には、儲けを社員に還元せず、広告費につぎこむ企業さえ現れている。そのため、テレビの広告費は、90年代に入っても、伸び続けている。

 しかし、収入の減少や少子高齢化により人々は紙媒体の購入を控えるようになり、次第に、雑誌や新聞の多くは発行部数を落としていく。さらに、インターネットや携帯電話が普及し、テレビ離れも始まる。企業もマスメディアよりも、インターネットなど元気なメディアに広告費を使う方が効果的であると考えても無理からぬところである。

 加えて、90年代から衛星放送も身近となり、数多くの専門チャンネルに触れる機会が増え始める。高い専門性に彩られた番組は、あまりにも低俗化した従来の地上波の番組に呆れていた視聴者をつかみ出す。キラー・コンテンツの一つとしてニュースが挙げられる。しかし、分析性と検証性が脆弱な発表ジャーナリズムを続けてきた日本型マスメディアはCNNやBBC、アルジャジーラとニュースの吸引力・発信力ではお話にならない。ぬるま湯になれた民間放送局は、各国のテレビ局がYouTubeと連携を強化していく動きにも立ち遅れてしまう。著作権はともかく、使用したニュース映像がウェブ上で流通することはジャーナリズムには本質的な問題ではない。誰もがニュースの発信者となれるとすれば──可能性は往々にして義務となり、評価へと歪曲される。誰もが発信者になれるのなら、誰もが発信者にならなければならなくなり、そうしない者は負け犬と烙印を押されてしまう──、ジャーナリズムにとって重要となるのは映像の入手ではなく、分析力・検証力である。それこそがリアリティTVとジャーナリズムを分かつ点である。情報入手に意味があるのは、そこが独裁ないし独占の体制においてである。秋葉原無差別殺傷事件のマスメディアのみならず、ネット上にも事件直後の模様の映像が氾濫したが、それが発表ジャーナリズムの行き着く果ての光景である。

 森毅京都大学名誉教授は、『五五年体制じゃない、三〇年体制の崩壊なんだ』(1993)において、食管法や教育体制、雇用形態など戦後の制度の多くは戦時下に生まれたものが、「1930年体制」と呼ぶべきだと提唱している。

 その上で、1930年からの日本を「人生になぞらえるとしっくりくる」と次のように述べている。

 青春時代は暴走族でオートバイを乗り回していた。これが戦前。二十歳になると更正してシュンとなり、ネクタイを締めて満員電車に揺られて会社に通うはめになった。この時期が戦後で、まさしく昭和二十年の敗戦は青春の蹉跌風。
 その後、日本は立ち直って高度成長で変わった。人生でいえば四十歳前後で、社宅に住んでいたのが、無理をしてローンで一戸建てをやっと手に入れた。よし、がんばって働かなくては、といった年代だ。
 やがて六十歳近くになってゆとりがでてきた。ゴルフ会員権やリゾートマンションでも買って少しは遊ぶかで、これが平成バブル。でも、やっぱり定年がきてしまった、というのが現在である。
 どうだろう、一九三〇年から現在までは、一連の時代の流れのなかにあるとは言えまいか。ひとわたり人生が終わったのなら、もう一度生まれ変わるしかない。
 だとしたら、まったくちがうワンサイクルが来ようとしているのだから、これまでのシステムを維持しようとか、状況をとりもどそうではやっていけぬ。重要なのは、新しい形態にどう適合していくか、である。

 戦時体制に確立された制度は、戦後になっても、そのままなし崩しに続いてしまったり、一旦変更されたものの元に戻されたりして、数多く生き残っている。1990年代前半から、戦後の制度と思われていたものが、実は、1930年代に始まる国家総動員体制の産物であることが一般的にも知られることとなり、次々と変革を迫られている。1930年体制の崩壊と新たな体制の形成が進行している。日本型マスメディアもこうした1930年体制の一環であり、「これまでのシステムを維持しようとか、状況をとりもどそうではやっていけぬ」。今、日本のマスメディアに求められているのは「新しい形態にどう適合していくか」に答えていくことである。

 天野元編集長が指摘する通り、ウェブ広告は、まだ発展途上で、マスメディア広告の完成度とは比較にならない。「インフォメーション」の伝達にすぎず、「表現性」は乏しい。ほとんど駅まで配っているティッシュのチラシとしか思えないものも少なくない。マスメディア広告はアイデアをコピーやデザインなどで加工する必要があったが、ウェブ広告ではアイデアだけを配信し、受信者がそれをカスタマイズすればよいという前提がある。コアとなるアイデアを考案することが求められる。ビジネス・モデルがある程度定着しないと、「クリエイティブ」な広告は登場しにくい。しかし、そのときは、少なくともアメリカでは近づいている。IAB(Interactive Advertising Bureau)とPWC(PricewaterhouseCoopers)は、2008年月17日、ウェブ広告の四半期売上高が2004年以来初めて前四半期をわずかながら下回ったと発表している。1月から3月までのインターネット広告費は58億ドルで、2007年第4四半期の史上最高記録である59億ドルから減少している。アメリカではすでにウェブ広告が定着しており、これからも伸びは見込めるにしても、日本のように急上昇する可能性は少ない。アメリカではウェブ広告がすでに定着し、次の段階に向かいつつある。

 「マスメディア広告万能の時代は終わった」は、マスメディアが凋落し、その広告が万能である時代は終わったということである。「万能時代の終焉」とはダニエル・ベルが提示した「脱工業化社会」の「脱(Post-)」を意味している。広告は日本型マスメディアが衰退しても、粗暴の危機に陥ることはない。広告の歴史はマスメディアとは比較にならないほど古い。その万能時代が終わっただけで、マスメディア広告自体が消滅することはない。これからも存続していくだろう。しかし、ニュース映画が消えていったように、マスメディアは、広がりすぎた領域を縮小し、他のメディアとの共存を見出していくに違いない。天野元編集長はマスメディア広告が「あいさつ機能」として残っていくと予測している。「あいさつ機能」とはファティック・コミュニケーションのことである。あいさつは内容があるわけではないが、発せられること自体に相手との関係を確認する意義がある。これは、むしろ、マスメディア広告が一般に定着したことを意味する。

 新奇に登場したものは、概して、暴力的になりやすい。それは自分たちの声や重いが伝わっていないのではないかと送り手が感じてしまうからである。

 後藤滋樹早稲田大学教授は、2004年にNHKで放映された『ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け』の第6話「JUNETの幸運」の中で、なぜ携帯電話で相手の声が小さいと自分の声が大きくなるかについて次のように述べている。

 それからメールを使うと、喧嘩が激しくなるという現象。今日の社会問題にもなってますが、これは他の国でも研究がありまして、人間というのはですね、細いチャンネルだと思うと声を強くするんですね。携帯電話で相手の声が小さいと自分の声が大きくなる。メールというものが十分自分の気持ちが伝わらないと思うと、自動的に強く書くんです。メールというものを人間が十分に使いこなしているという証拠なんですけど、メールの喧嘩はしつこいと。

 太いチャンネルを保持しているなら、「声を強くする」必要はないので、アグレッシヴに訴えることもない。市民権を獲得したのに、マスメディアが昔を懐かしみ、人の話をさえぎり、自分のことばかり喚き続けたり、まだまだ若いものには負けないと年寄りの冷や水に躍起になったりするのはみっともない。むしろ、経験に裏打ちされた洗練さをさりげなく示しながら、いつもと同じような声であいさつする姿が望ましい。

 天野元編集長は「テレビ広告は視聴者が見たくなくても見せられちゃうところを暴力的と言っている」が、その意味では、ネット通信を占拠するスパム・メールはより「暴力的」だろう。また、ウェブ上のコミュニケーションもしばしば暴力的・攻撃的となるのは、必ずしも匿名のせいばかりではない。「細いチャンネルだと思うと声を強くする」からである。「細いチャンネル」しか持っていないと感じている人がネットを使い、そこでも「十分自分の気持ちが伝わらないと思うと」、攻撃性が誘発される。電子メディアは、時にマスメディアが怯えてしまうほど暴れてしまう。ネット上の書き込みで強い言葉を見かけたら、それは「細いチャンネル」の表出だと推測できる。

 ついついそうしがちだが、声を大きくすれば、自分の思いが伝わるというものでもない。騒々しさにうんざりして、話を聞く気になれなくなる。静かに穏やかな口調でその人だけに語りかけるなら、小さな声であっても、むしろ、耳を傾けてくれる。

 戦時下は大きな声が支配する。本音は信頼できる相手と小声でひそひそとささやきあうほかない。日本型マスメディアはそうした1930年体制に確立し、戦後も大声偏重のまま発展している。だからこそ、天野元編集長は、優れたクリエーターたちはその暴力性を避けるようにマスメディア広告をつくってきたと言っている。しかし、1930年体制の崩壊の時がきている。それに伴い、日本型マスメディア万能の時代が終わり、大声でなく、小声が伝達力を発揮する時代が到来しつつある。
〈了〉
参照文献
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石井清司、『スポーツ・マフィア―電通の時代』、講談社、1989年
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現代ジャーナリズム研究会編、『記者クラブ―市民とともに歩む記者クラブを目指して! (新聞報道「検証」SERIES)』、柏書房、1996年
里見脩、『ニュース・エージェンシー―同盟通信社の興亡』、中公新書、2000年
筑紫磐井、『標語誕生』、角川選書、2006年
藤井剛彦、『電通の成功・失敗・弱点―1兆円企業になれた秘密と巨大ゆえの弱さと脆さ』、エール出版社、1989年
本間之英、『社名の由来』、講談社、2002年
水越伸、『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』、紀伊国屋書店、2005年宮山峻、『廣告の考え方・作り方』、誠文堂新光社、1951年
村上玄一、『記者クラブって何だ!?』、同朋舎、2001年
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吉見俊哉他、『改訂版メディア論』、放送大学教育振興会、2001年
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『週刊金曜日』1997年10月17日号、金曜日
『週刊金曜日』2005年2月11号増刊、金曜日
『広告批評』325号(2008年4月号)、マドラ出版

DVD『ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け』弐、BBMC、2005年
DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年

アド・ミュージアム東京
http://www.admt.jp/index.html
総務省
http://www.soumu.go.jp/
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http://www.dentsu.co.jp/
日本広告業協会
http://www.jaaa.ne.jp/
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http://www.pressnet.or.jp/
日本民間放送連盟
http://www.nab.or.jp/
財団法人吉田秀雄記念事業財団
http://www.yhmf.jp/index.html
国会、「参議院会議録情報 第084回国会 決算委員会 第3号」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/084/1410/08408311410003c.html

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