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戦後70年の反戦文学に向けて(1)(2015)

戦後70年の反戦文学に向けて
Saven Satow
Aug, 31. 2015

「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」
明治天皇

第1章 トルストイの日露戦争批判
 日本史において文学者による反戦運動が社会に影響を与えたのは日露戦争からである。日清戦争の際にも幸徳秋水らが反戦を主張していたが、市井に広がりを見せることはない。大国清に勝てるのかという懐疑的な見方はあったけれども、戦争自体を批判しているわけではない。

 日清戦争によって人々は従来の戦と違う近代戦の姿を知る。戊辰戦争や西南戦争といった内戦の経験はあったが、それは主に士族の戦いである。他の人々にすれば、既得権の争いにも見える。けれども、日清戦争は動員された国民の兵士が国家の大義のために大量に負傷し、病気に苦しみ、犠牲になっている。

 日露戦争の反戦はこうした戦争観の変化だけが理由ではない。動きを引き起こしたのはレフ・トルストイの反戦アピールである。1904年、日露戦争が勃発すると、『北米新聞』が文豪にどちらの国の味方になるつもりかと尋ねた際、「私はロシアの味方でもなければ日本の味方でもなく、良心と宗教と自己の幸福とに反してまで戦うよう政府によって横着され強制された両国の労働階級の味方である」と2月9日に答える。さらに、文豪は、6月13日、日露戦争に関する論文『反省せよ!』をイギリスの出版社から刊行すると、各国の新聞に翻訳・転載される。
 
 何万キロもたがいに離れている人間同士が、一方は人だけでなく動物すら殺すことを禁じる掟をもつ仏教徒、一方はすべての人を兄弟とみる精神と愛の掟を信じるキリスト教徒であるのに、彼らは、野獣のように残酷きわまる殺しあいをするために、陸に海に敵を探し求めている。
 
 日本でも、6月27日付『タイムズ』紙の記事を元に、週刊『平民新聞』が8月7日号に日本語訳を掲載し、『東京朝日新聞』も「トルストイ伯 日露戦争論」と題して8月2日から20日に亘って連載している。

 「汝殺すなかれ」の戒めに背いて人と人が殺し合うことを嘆き、日露双方の人民を犠牲にして野心家たちがこの戦争を通じて宮殿に安居とした栄誉と利益を求めようとしていると糾弾している。戦争は宮殿のためにおこなわれる。人民のためではない。戦争支持だった石川啄木は、この論文を読むなり、慌てて、反戦に立場を変えている。

 今日の映像メディアが追いかけ回すのは映画俳優やミュージシャン、アスリートである。しかし、生まれたばかりの時、カメラが殺到したのは世界最高の文豪トルストイである。彼が向かう先にすでにカメラと野次馬が待機し、通り過ぎると、後を追いかける。トルストイは最初のメディア・スターである。

 トルストイの発言はあっという間に翻訳され、世界中に拡散する。当時はツイッターもフェイスブックもないが、すぐさまその反響も湧き上がる。影響力は絶大で、彼がいかなる態度をとろうと、ツァーも手出しできない。

 教えや忠告を求めて、トルストイの元を訪れたり、手紙を送ったりする人も少なくない。1894年、小西増太郎は、ロシアに留学中、文豪と共同で老子のロシア語訳に着手している。彼の記した『トルストイの葬儀』は、文豪の葬儀の模様を知る貴重な資料となっている。ちなみに、なお、この増太郎の息子が野球解説者小西得郎である。また、96年に、徳富蘇峰と深井英吾、06年には、徳富蘆花夫妻がヤースナヤ・ポリャーナ詣でを行っている。他にも、04年、安倍磯雄は、文豪との間で、社会主義に関する考えを書簡で交わしている。

 大正時代の文学者の間で、文豪の影響力は圧倒的である。感銘を受けて、武者小路実篤は「新しき村」を設立し、有島武郎は有島農場を小作人に解放したのはその代表だろう。加えて、14年、芸術座が文豪の『復活』を上演した際、松井須磨子がカチューシャを主演し、『カチューシャの唄』が大流行している。今日でも、女性用のC字型ヘアバンドは「カチューシャ」と呼ばれているのは、このヒットに由来している。

 ガンジー主義や公民権運動など20世紀の非暴力主義の抵抗運動はトルストイ主義に起源を持っている。被抑圧からの解放運動に果たした意義は大きい。トルストイの反戦論が画期的であるのは、当時の外交理論を考えれば、より明瞭になる。


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