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傷ついた果実たち─寺山修司の抒情詩(12)(2002)

12 少女と抒情詩
 「でも本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られるのだろうと思います。ですから教師にできる最良のことは、それをそっとしておいてやることでしょう。ただいくつかの質問を投げかけて、自分の演奏には疑問の余地があるのだということ、そしてその解答は自分で見つけなければならないということを自覚させるのです。教師にできるのは質問することなのです」(グレン・グールド『グレン・グールド ピアノを語る』)。

 寺山修司は、『二十歳』において、「質問」になりたいと次のように書いている。

わたしはただ
「質問」になりたいと思っていたのです。
いつでも、なぜ? と問うことの出来る質問。
決して年老いることのない、
そのみずみずしい問いかけに……

 寺山修司はここで「何?」ではなく、「なぜ?」という質問をあげている。「なぜ?」は子供が大人に対して発する問いである。子供は大いなる「生成の無垢」(ニーチェ)にほかならない。「ぼくは『ある』というのが現実の用語で、『なる』というのが演劇の用語だと思っている」(『ツリーと構成力』)。寺山修司にとって、重要なのは存在ではなく、生成である。

 海の中に小さなもうひとつの海があるように
 本の中に小さなもうひとつの本があるのは
 たのしいものです

 しかも その本には不思議な絵がたくさんあって
 あなたを待っている

 もんだいは
 あなたの中に小さなもう一人のあなたがいるかどうか
 ということだけです
(寺山修司『もんだいは』)

 「言葉に絶望せざるを得ないなら」、谷川俊太郎と違い、寺山修司が「デッサンの勉強を始める」ことはありえない。

 寺山修司は、『海では飛べない』において、詩作について次のように述べている。

  そうです 海では飛べません
  それなのに 海で飛ぼうとして
  びしょぬれになっている悲しい鳥

  一篇の詩を書くということは
  そうした不可能性に賭けてみることなのだ
  ということができるでしょう

 彼ならば、「言葉に絶望」すればするほど、人々がハルウララにそうするように、「生成の無垢」としてすべてを忘却し、全力で、言葉に「賭け」てみる。寺山修司の文庫本のカバー・デザインをマンガ『赤色エレジー』の作者である林静一が担当している。アメリカの安酒場で行われていたハンマーに画鋲を打って奏でられるハープシコード風の音を思い起こさせるように、あがた森魚が「幸子の幸はどこにある」と歌ったあの『赤色エレジー』である。林静一は大正期の少女雑誌風のイラストを描く。

 大衆文化の謳歌した大正は抒情的芸術が隆盛している。寺山修司が関心を寄せていた「少女」雑誌は大正の終わりから昭和の初めにかけて発売されている。抒情性と少女は密接に関係している。それは古屋信子が『花物語』に描き、西篠八十が詩に書く繊細で、感傷的な「少女」である。閉鎖的な審美主義者の彼女たちは倒錯的に神話の世界を好んでいる。

 しかし、神の死後、新たな価値を創造できるのは「少女」である。歴史的に蓄積されてきた女に対する認識を哄笑できる少女がすぐそこにいる。それはパンドラである。ルイーズ・ブルックスはG・W・ハフスト監督の『パンドラの箱( The Box of Pandora: Die Buchse der Pandora)』(一九二九)の主演にふさわしい。この世の矛盾や苦悩、病気、嫉妬、怨恨、復讐は彼女の悪ふざけである。それにより、神の死は決定不能に置かれる。

 寺山修司はリュック・ベッソン監督の『レオン(Leon The Professional)』(一九九四)のレオンであろう。マチルダはパンドラの化身である。パンドラが謝れば、許すし、何度繰り返しても、文句は言わない。パンドラは希望を与えるからである。「絶望」から文学を寺山修司は始める。”Don’t be so serious! Don’t be so rigorous!”(Melon “Serous Japanese”)

 寺山修司は、実際に、確実さへの抗いから、賭けに関して数多くの作品を残しているが、賭けの理論もルネサンスに登場している。ルネサンス期にタルタリアことニコロ・フォンターナとジェロラーモ・カルダーノが賭博について鋭い分析を行っている。もっとも、彼らの仕事は、数学者にとってはゲーム的すぎ、ギャンブラーにとっては数学的すぎたため、省みられることはなく、その後、一七世紀に、ジャバリエ・ド・メレやブレーズ・パスカル、ピエール・ド・フェルマらが本格的に確率論を手がけるようになる。

 あなたは一人しかいないのにあたしには目が二つある
 もう一つの目は何を見たらいいのでしょう?

 あたしには目が二つしかないのに空には星が無数にある
 かぞえのこした星はだれがかぞえてくれるのでしょう?
(『少女から神さまへの?マークつきのお手紙』)

目はいつも二つある 一つはおまえを見るために もう一つはぼく自身を見るために
(『目』)

二からはなにも引くことはない 二人で旅をつづけてゆこう それがぼくらの恋の唄
(『引き算』)

たし算は 愛の学問です。
(『たし算』)

 数学と抒情詩や諷刺は必ずしも遠くない。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や抒情詩がよく知られているけれども、他にも、エドウィン・A・アボットは、一八八四年、社会批判の数学ファンタジーの傑作『多次元★平面国―ペチャンコ世界の住人たち(Flatland)』を書いている。

 平面世界において、人間は多角形である。ビクトリア朝の人々と同様、高い地位を獲得するのに躍起になっているが、地位は辺の数によって決まる。紳士は四、貴族は多数、労働者は三、女性は一である。主人公「正方形」は五〇〇年に一度平面世界に出現する「球」と友達になり、「球」に連れられて、異次元世界の「点世界」や「線世界」、「立体世界」を案内される。平面世界に戻った「正方形」は友人たちに体験してきたものを説明しようとするが、「空間」を実際に示すことができない。彼らはそんな「正方形」が発狂してものと思ってしまう。

 寺山修司は抒情を透明さによって表現する。透明は無媒介ではない。透明という媒介性を寺山修司は提起している。透明はある対象との距離があって初めて意識されるのであり、対象との距離感の把握が必要である。透明は私と対象との距離が見えてしまうために、遠さを感じさせる。「正方形」同様、私は孤独に置かれていると意識し、抒情はここに生まれる。距離感がまったく感じられていないときに、抒情は発生しない。

 バラードと言うよりも、ミディアム・テンポの寺山修司の抒情詩を歌えるのは由紀さおりである。あのさりげない透明感はまさにふさわしい。

死んでもあなたと
暮らしていたいと
今日までつとめた
この私だけど
談志にもらった 名前を捨てて
二人で書いた
この絵燃やしましょう

どこが悪いのか 今もわからない
だれのせいなのか
今もわからない
涙で綴りかけた お別れの手紙

出来るものならば
許されるのなら
もう一度生まれて
やり直したい
楽屋に飾った レースをはずし
二人で練った
ネタに鍵をかけ

明日の私を 気づかうことより
落語の未来を
見つめてほしいの
涙で綴り終えた お別れの手紙
涙で綴り終えた お別れの手紙
涙で綴り終えた お別れの手紙…
(由紀さおり『手紙』)

 寺山修司の抒情詩を読むとき、『手紙』の由紀さおりの歌声を思い浮かべよう。寺山修司はリズムを重視することにより、彼の俳句や短歌がモチーフにした作品と比べてそうであるように、リズムを束縛していた重苦しく、じっとりとした暗さの代わりに、すがすがしいカラッとした明るさを獲得する。そうした涼やかで軽やかな透明感としての抒情を由紀さおりの歌声は具現化している。

 わたしは一生かかって
 かくれんぼの鬼です
 お嫁ももらいません
 手鏡にうつる遠い日の
 夕焼空に向かって
 もういいかい?
 と呼びかけながら
 しずかに老いてゆくでしょう
(寺山修司『初恋の人が忘れられなかったら』)

 ただし、『時には母のない子のように』だけは、『夜明けのスキャット』の歌手ではなく、姉の安田祥子の歌声でなければならない。母と子の抒情詩にはいささか流行歌手風の俗っぽさが似合わないからだ。

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