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北緯35度42分─ヘンリー・ミラーの『北回帰線』(6)(2007)

6 座談の名手
 1930年、38歳のヘンリー・ミラーは二人目の妻ジェーンの支援で単身フランスに棲み、年下のスコット・フィッツジェラルドやドス・パソス、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェーが再訪したパリでの華々しい活躍を伝える英字新聞にコラムの代筆をしている。38歳と言やあ、もういい年齢だ。その後、1934年6月、41歳のときに発表したのがこの『北回帰線』だ。このデビュー作は一部の賞賛と大部分の批難、嘲り、罵倒によって迎えられている。41歳!今の俺と同じ歳だ。でも、俺は、ゲーム『ストリートファイターシリーズ』に登場するジミー・ブランカと同じ日に生まれたらしいが、ヘンリー・ミラーともジミー・ブランカともずいぶんと差がある。

 ヘンリー・ミラーは、『北回帰線』において、自分の生き方について次のように述べている。

 俺は精神面でのみ死んでいる。肉体的には生きている。道徳的には自由だ。俺が見捨てた世界は檻に入れた動物の見世物に過ぎなかった。今新世界の夜明けが近づいている。それは、鋭い鉤爪を持つやせた精神が徘徊しているジャングルだ。もし俺がハイエナだとすれば、やせて飢えたハイエナだ。俺は太るために前進する。

 ヘンリー・ミラーは、むしろ、「精神面」では健康的である。直線的で、屈折や葛藤、不安などはまったく見られない。しかし、ヘンリー・ミラーの姿は「ジャングル」の「ハイエナ」ではない。横丁の野良猫のライフ・スタイルだ。家猫でも、野猫でもない。食い物にありつつくために、如才ないヘンリー・ミラーは知り合いのところを回る。うちの軒下を朝10時頃にあの黒猫が縄張りを確認するために通過するように、ヘンリー・ミラーは定期的に友人たちの家を訪問する。友人たちが食事を提供するのは、いつも入り浸られてはかなわんし、決まったときに、訪れてくれる方がありがたい。まあ、喜捨や寄付だと思えばいい。ニャンコ先生が「とってんぱーの にゃん ぱらりっ」とキャット空中三回転を風大左衛門に教えているのと同じではないか!

 それが可能だったのは、その座談のうまさによる。ヘンリー・ミラーは座談の名手だ。友人たちに座談の対価として飯を食わせてもらう。座談をするには、話題が豊富で、なおかつ客層によってその嗜好を読んで変えられる能力が不可欠だ。結婚式での来賓のスピーチみたいのじゃあお話にならない。

 座談は「ファティック・コミュニケーション(Phatic Communication)」の一種である。「交語」とも訳されるファティックは、特にメッセージ性がないけれども、発することにより、送信者と受信者の間につながりとつくり、強める言語の機能である。自己を表現するためでも、情報を伝達するためのものでもない。「あいさつは、その代表的なものであって、人間同士の結びつきを作り、社会を作り出す。会っておきながらあいさつをしないと、その人との関係が切れていく。あいさつをするからといって、それだけで関係が深まるわけではない。『おはよう』などのあいさつは、一度できた社会的な関係を維持するという働きをする」(金田一秀穂『新しい日本語の予習法』)。他にも、友人や恋人、家族とのおしゃべりもファティックに含まれる。それらは伝えるべきメッセージ性に乏しく、生産的・建設的内容でもない。それは発話すること自体に意味がある。ファティックは関係性をつくり、強め、グルーミングの機能を持っている。

 「グルーミング(Grooming)」とは、集団生活する動物がストレス解消のために行う好意である。代表的なのが毛づくろいである。各種の研究によれば、社会集団の大きさに比例して、グルーミングに費やされる時間も増加する。サルは不特定多数ではなく、家族であるとか、親しいものであるとかいつも決まったパートナーとの間で毛づくろいをし合う。このグルーミング仲間では、餌を見つけたり、敵が近づいてきたりした際に、合図を出し合っている。利他的行為はグルーミングが成立している間柄でなされるのであり、グルーミングは友好的な関係を形成・維持するための行為である。

 GWに石垣島へ旅行し、夜空を眺めている恋人たちが次のような会話を交わしているとしよう。

 「星がきれいね?」
 「そうだね」
 「あの赤い星は何かな?」
 「何だろう?」

 この会話には、これといった内容がない。お互いの関係を確かめるために交わされているのであって、行為自体に意義がある。この会話に潜在している意味を顕在化させれば、次のようになるだろう。

「あなたが好きよ」
「ぼくもさ」
「あなたが好きよ」
「ぼくもさ」

 しかし、こういった他愛のない会話を「あああ、勝手にやってくれや」と軽視すべきではない。この女性にしたところで、「あ、あの赤い星はアンタレス。詳しいデータはちょっと思い出せないけど、視等級は1.09で、変光星型 LC型、地球からは約600光年で、表面温度は、確か、3600Kだったかな、さそり座を構成していて、一般にはさそり座のα星と呼ばれているんだ。さそり座は代表的な夏の星座でね…」などという答えを期待しているわけではない。こうしたファティック・コミュニケーションにはグルーミング効果があり、ファティックこそが言葉の起源という学説もあるほどだ。「ことばはコミュニケーションの道具である、とよく言う。しかし、ことばは情報伝達の道具というだけではすまされない。ことばの起源を見た人はどこにもいないのだから、あくまでも仮説にすぎないけれど、ことばがお互いに仲良くする目的のために生まれたのだという考え方は、ちょっと魅力的だと思う」(『新しい日本語の予習法』)。

 付け加えると、人間以外の動物が第三項の認識をめぐって相互作用をして、共通認知することは確認されていないそうだ。

 例えば、小岩井農場でなされた20代後半の母と2歳の娘の次のような会話はチンパンジーには認められていない。

 「お馬さんがいるねえ」。
 「お馬さん、お馬さん」。
 「かわいいねえ」。
 「かわいい、かわいい」。

 こういうのが言語を通じた人間のグルーミングの一例である。

 ヘンリー・ミラーはすぐに友達をつくれる。それは、座談以前に、話しかけるのが上手だからだろう。最近は聞かれなくなったけれども、「理論か実践か」とか「書斎か街頭か」という議論が伝統的にあるが、がお等にでて実践に入るには、まず、誰かと出会って、話しかけないと何も始まらない。政治にしろ、ボランティアにしろ、文化交流にしろ、何らかの活動に参加するには未知の人に話しかける技術がないと話にならない。ところが、ヘンリー・ミラーと違って、日本人は下手だ。何か公益的な活動に参加したいと思いながらも、できずにいる人が多いのはこういう理由も大きいだろう。

 何しろ、日本では一言も一日中話さずこと足りてしまうことさえある。弟によると、アメリカでエレベーターで誰かと乗り合わせたら、話しかけないといけないらしい。でないと、ホールド・アップと勘違いされてしまうんだそうだ。また、妹とパキスタン系英国人が一緒にアンマンの公園のベンチに座って朝食を食べていると、隣のベンチにヨルダン人の男が腰掛け、無言で食べ始めたのを見て、こう言ったそうだ。「話しかけてこないわ。相当暗いわね」。一人で何かを黙々と成し遂げることが実践的なのではない。実践とは未知の人とコミュニケーションすることであり、ヘンリー・ミラーは、その意味で、非常に実践的である。

 俺も生き延びていくために、座談をよくする。でも、いくらなんだって、いつもいつも、高校のクラスでの教師の雑談程度というわけにはいかない。今朝だって、NHK・BS1の『おはよう世界』を見ながら、通訳の話題となり、どんなに流暢に外国語が話せるとしても、経済人は英語を使うのが当然であるけれど、政界の人は通訳を間に入れるべきだと妹に説明している。

 「フェアトレードグアテマラSHB」のコーヒーを飲んでいたときに、たまたま、アイスクリームに関するアメリカ制作の番組のことを妹が思い出し、アイスクリームが「ホット・ケーキのように売れた」と吹き替えたシーンがあったが、あれは「飛ぶように売れた」の慣用句を直訳してしまったんだろうと言ったのがきっかけだ。

 通訳は、厳密には、非ネイティヴ言語からネイティヴ言語への翻訳だけを指す。俺は6段ある書棚の下から数えて3段目から文庫本を引っ張り出す。鳥飼玖美子は、『歴史をかえた誤訳』において、英語に自信のある政治家に限って、英語の失言を起こすと記している。今年亡くなった宮澤喜一元首相が経済問題で失策を続けたのも、彼が通訳を使いたがらなかったことに一因があると見られている。追悼する際に、通訳抜きで話すことを讃えるコメントがメディアでよく見られたが、それはとんでもない誤解だ。宮澤元議員が蔵相や首相でいたときに、必ず円が急騰している。エドウィン・ライシャワー元駐日大使はあれだけ日本語に通じていても、必ず通訳をつけている。それは通訳がたんに言葉を訳すのではなく、そこにこめられているメッセージも配慮するからだ。1993年のビル・クリントン大統領との首脳会談で、その内容を読む限り、アメリカは円高容認のメッセージを送っている。けれども、宮澤首相はそれに気づいていない。バブルがはじけたあの時期に急激に円高が進むことは、日本経済にとって、好ましくはない。宮澤首相が自身の英語力に過信したために、日本経済はさらに沈むことになってしまったのではないかと1993年4月25日付『朝日新聞』の「声」欄に投書もあったほどだ。

 そもそも、「外国語副作用」という現象もある。外国語を使うと、母語の場合と比べて、言語処理に能力が割かれるため、思考が下がってしまう。通訳を使えば、その人が訳している間の時間がとれるので、処理に思考を妨害されずにすむ。極端に言えば、通訳を入れること自体に意義があるのであって、その通訳が自分よりも外国語の能力が劣っていてもかまわない。

 ついでに言うと、高度で抽象的な計算においては、金田一秀穂によると、バイリンガルはありえない。最も得意な言語で作業にあたる。

 だいたいこんなところだ。

 妹だけじゃない。岡田ん家に呼ばれるなどいろいろな人から飯や酒、服、本、映画の世話になっている。話題は、だから、多岐に亘っていないと、毎回毎回飯にありつけられるというもんじゃない。魚ヘンに喜ぶと書いて、「鱚(キス)」と読むとか、日本語では「無党派層」と呼ぶが、英語においてそれは”Independence Voter”と言い表わすんだけど、まるで印象が違うだろとか、『チャーリーとチョコレート工場』のジョニー・デップは楠田枝里子に似ているとか、インフルエンザの予防接種を共産党の天沼診療所で受けてきたが、あそこは2650円と安くていい、注射するならそこにしろとか、弟がアトランタに出張したとき、夜10時に仕事先のアメリカ人からチーズ・バーガーを食わないかと誘われたんで、断ると、「お前、どこか悪いのか?」と心配されたとか、海外の外国人へのお土産には羊羹、国内にいる外国人には干し柿が喜ばれるとか、美輪明宏が東京駅の弁当売り場でチキン・バスケットが品切れだと知って悲しそうな表情をしていたとか、日本のポピュラー音楽では「あなた」から始まる歌が多く、「わたし」が頭にくるのは少ないのは、「ア」は「ワ」と比べて口の開きが小さくてすむからだとか、マンガのヒーローは、世界中を見ても、実質的に、孤児が多いとか、マフィアのゴッドファーザーだったジョン・ゴッティの未亡人ヴィクトリアが「本当の悪党はジョージ・W・ブッシュとディック・チェイニーじゃないか、あいつら何人を殺したんだ?ニュースを聞く度に胸糞が悪くなる、うちの旦那よりもあいつらを追求しろよ」メディアに噛みついたとか、文房具屋で80歳くらいのおばあちゃんが「ネズミばっかり!どうしてかしら?あたしゃネズミが嫌いなのよ。ネズミのない年賀状ない?」と尋ねていたとか…

 俺は自分のポケットには金をもっていなかったが、他人の金を自由に使うことができた。社の雇用主任だということで信用があったのだ。俺は平気で人に金をくれてやった。洋服でも、下着でも、本でも、余分なものは、ことごとく人にあたえた。どんなに多額な金でも、気前よくあたえた。なぜなら、貧しい悪魔どもにことわるより、よそから借りて渡すほうが気が楽だったからである。俺は貧しい自分の生涯中に、これほど悲惨な人間どもの集団を見たことがなかった。しかし、その底には目に見えないほど小さなほのおが燃えていた。そして、その火をかきたてる勇気さえあれば、炎々と燃えあがらせることもできるのである。俺は、思いやりをかけすぎるな、感傷的になりすぎるな、と絶えず(副社長に)戒められた。くそくらえだ! 俺は、あくまで寛大に、思いやり深く、すなおに、慈悲と寛容とまごころをつくそう、と俺は心ひそかに反駁した。そして、当初のうちは、一人一人の話に、終始熱心に耳をかたむけた。もしその男に職をあたえることができず、しかも俺が金を持っていない場合には、タバコをやるか勇気をつけてやるかした。とにかく、あたえることに専心した! 俺は、それと交換に、大きな感謝と、好意と、かずかずの招待と、感傷的ながら心のこもった、ささやかな贈りものを受けたのである。
(『南回帰線』)

 ヘンリー・ミラーのファティックには、ユーモアが溢れている。田澤晴海は、『ヘンリー・ミラー研究』において、「作品の構造を解く鍵」として”cancer and delirium”を挙げ、この二つの概念の往復運動が作品を展開させていると指摘している。従来、”cancer”ばかりがとりあげられてきたけれども、”delirium”に「道化の思想」を見出し、これがあるからこそ、俺は金がない。手に職もない。希望もない。俺はこの世でいちばん幸福な人間だ」が現状打破として表われていると分析している。硬直して何も生み出せなくなった現実ないし人間の状況を打開するには、ユーモアが欠かせない。最良の笑いは、おそらく、道化による批判精神であろう。道化は王に依存しながら、最も彼に直言できる存在だ。自分を高みに置いて他人を冷笑するなど「何様のつもりだ?」と反発されるだけで、現状の打開どころか、もっと深みにはまってしまう。精神的低迷状態から解放がされるには、道化の精神を獲得するほかない。

 ヘンリー・ミラーは、『三島由紀夫論』の中で、笑いの重要性について次のように述べている。

 彼のくそ真面目な性格が、三島の邪魔になっていた。私はこのくそ真面目というのが日本人の特長であると言いたい。禅師だけが、本当の意味のユーモアを持っていると思う。それは西洋人にもまた無縁であるユーモアだということも付け加えておきたい。もし禅のユーモアをわれわれが理解し、本当に評価するならばわれわれの世界は崩壊してしまうだろう。重要なのは、このユーモアの欠如というものが融通性のなさにつながるということなのである。

 ヘンリー・ミラーはこの道化の思想でもって友人たちの間を回り、都市を徘徊する。ジョージ・オーウェルは、『鯨の腹のなかで』において、『北回帰線』について、現代文明批判を盛りこんだ都市放浪記のスタイルをとった「一人の幸福な男をめぐる本」と指摘している。

 街は、俺の避難所だ。そこに逃避せざるをえなくなるまでは誰にも街の魅力はわからない。微風のそよぐごとに、ここかしこに吹き流れる一本の藁となるまでは。
(『北回帰線』)

 都市には、しばしばアイデンティティを付与され、確認するために人が集まってくる。新宿、渋谷、六本木、大久保、秋葉原、ネット・カフェなど挙げればきりがない。都市放浪記は、そのため、アイデンティティの物語となりやすい。しかし、ヘンリー・ミラーは違う。ヘンリー・ミラーほど都市を書くことに向いた作家を捜すのも難しい。寄生虫のような彼のライフ・スタイル自身が都市そのものを体現している。

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