梶井基次郎、あるいは冴えかえった色彩(5)(1993)
5 認識はするが、計算はしない
梶井はこうしたディオニュソスがアポロを踏み超えていく様子を、ほかの作品でも、次のように示している。
「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のなかに浮んだ人影を眺めてそう思った。彼は幾晩もその人影を認めた。その度に彼はそれがカフェで話し合った青年によもやちがいないだろうと思い、自分の心に企らんでいる空想に、その度戦慄を感じた。
「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の上へ立つようになった俺の二重人格だ。俺がこうして俺の二重人格を俺の好んで立つ場所に眺めているという空想はなんという暗い魅惑だろう。俺の欲望はとうとう俺から分離した。あとはこの部屋に戦慄と恍惚があるばかりだ」
ある晩のこと、石田はそれが幾晩目かの崖の上へ立って下の町を眺めていた。
彼の眺めていたのは一棟の産科婦人科の病院の窓であった。それは病院と云っても決して立派な建物ではなく、昼になると「妊婦預ります」という看板が屋根の上へ張出されている粗末な洋風家屋であった。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉されている。漏斗型に電燈の被いが部屋のなかの明暗を区切っているような窓があった。
石田はそのなかに一つの窓が、寝台を取囲んで数人の人が立っている情景を解放しているのに眼が惹かれた。こんな晩に手術でもしているのだろうかと思った。しかしその人達はそれらしく動きまわる気配もなく依然として寝台のぐるりに凝立していた。
(『ある崖上の感情』)
ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに云って見れば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんな風に消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
その家の前を過ぎると、道は渓に沿った杉林にさしかかる。右手は切り立った崖である。それが闇のなかである。なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起る。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押寄せて来るのだ。その音は凄まじい。気持にはある混乱が起って来る。大工とか左官とかそういった連中が渓のなか不可思議な酒盛をしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩じ切れそうになる。するとその途端、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
もうそこからは私の部屋は近い。電燈の見えるところが崖の曲角で、そこを曲れば直ぐ私の旅館だ。電燈を見ながらゆく道は心易い。私は最後の安堵とともにその道を歩いてゆく。しかし霧の夜がある。霧にかすんでしまって電燈が遠くに見える。行っても行ってもそこまで行きつけないような不思議な気持になるのだ。いつもの安堵が消えてしまう。遠い遠い気持になる。
闇の風景はいつ見ても変らない。私はこの道を何度ということなく歩いた。いつも同じ空想を繰返した。印象が心に刻みつけられてしまった。街道の闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿はいまも私の眼に残っている。それを思い浮べるたびに、私は今いる都会のどこへ行っても電燈の光の流れている夜を薄っ汚く思わずにはいられないのである。
(『闇の絵巻』)
闇は闇であり、光は光であるのではなく、「闇」もまた一つの光である。「闇」は光のもう一つの自己だ。「闇」というディオニュソスは、アポロという光以上に、「光」を放つ。この「光」は光以上の「光」であり、一つの行為にまで高められた「光」にほかならない。
梶井にとって、美は、黙っていると、形象化=概念化されたアポロ的な瞬間に、乗り越えを希求することになってしまい、それは美ではなく、醜となってしまう。それゆえ、梶井は、それに対して、ディオニュソス的な破壊を加えなければならない。このような破壊はロマン主義特有の死=再生という円環構造に基づいているわけではない。ロマン主義文学は死と再生を繰り返して最終的な真の誕生を迎える形態をとっている。ロマン主義の作品において、存在するものは終わりに向けた運動の連鎖の一部であり、書き手の意図によって定められた時間・空間の世界が展開される。
梶井の破壊がロマン主義的な死=再生の円環ではないことを『ある心の風景』における次のようなシーンが告げている。
深い霧のなかを影法師のように過ぎてゆく想念がだんだん分明になってくる。
彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、或る瞬間それが実に親しい風景だったかのように、また或る瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そして或る瞬間が過ぎた。--喬にはもう、どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町であるのか、わからなかった。暗のなかの夾竹桃はそのまま彼の憂欝であった。物陰の電燈に写し出されている土塀、暗と一つになっているその陰影。観念もまたそこで立体的な形をとっていた。
喬は彼の心の風景をそこに指呼することが出来る、と思った。
梶井の作品にはさまざまなものが登場するが、バフチンがドストエフスキーの作品から見出した「カーニバル」的な要素として、それらは混在しているわけではない。梶井の作品は、現実と想念の区別を超えた「現実」、光と闇の区別を超えた「光」、健康と病気の区別を超えた「健康」、快楽と苦痛の区別を超えた「快楽」、美しいものと醜いものの区別を超えた「美しいもの」、高貴なるものと卑俗なるものの区別を超えた「高貴なるもの」を表わしている。
こうした言いまわしは、一見したところでは、曖昧である。二項対立は否定的・受動的なるものの反動による規定であるが、一方、梶井は肯定的・能動的なものを価値基準として自己規定する。光と闇、健康と病気、快楽と苦痛、美しいものと醜いもの、高貴なるものと卑俗なるものとの二項対立的な区別は「AはAであり、BはBである」という同一性を自明の前提とすることから生ずる。梶井の認識は、ヘラクレイトスのように、カントの二律背反によって批判されることはない。「或る瞬間それが実に親しい風景だったかのように、また或る瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる」ように、「心の風景」はそうした同一性の否定として「指呼することが出来る」のである。
若くして生を失ったからと梶井の作品を青春の書やデカダンの書として読むことは、彼の作品の持つ二重構造をペシミスティックに一面化しているにすぎない。そもそも梶井の作品が青春の書であるとするならば、太宰治のように、もっと通俗的に普及して読まれ、彼も神話化されるに違いない。若者の間でカリスマ化するものは、文学に限らず、絵画や演劇、ポップ・ミュージックなどでも、太宰治のヴァリエーションであることは誰でもすぐに気がつく。太宰治はそした神話の日本的原形を示している。
梶井の作品は一個のデカダンスであるが、その対立するものでもある。梶井の作品はその二つの視線を保持し、見ている。『ある心の風景』の主人公は、「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」、と独白している。これは、ニーチェが『ギリシア人の悲劇時代の哲学』においてヘラクレイトスについて語った言葉を借りるならば、「ヘラクレイトスは巫女のような全身法悦の境地で観るのであって、窺い探るように見るのではない。「認識はするが、計算はしない」ということを意味している。
梶井の作品の主人公たちも、ヘラクレイトスのように、「認識はするが、計算はしない」。彼らにおいては、感じることがそのまま考えることであり、考えることがそのまま感じることである。それをわかつことなどできない。「AはAであり、BはBである」という同一の原理は機能しない。
一方、学者にとって、考えることは考えることであり、感じることは感じることである。そうしたカテゴリーがないとすれば、計算はまったく成り立たない。同一律を無視して、論理的論証をすることは不可能である。梶井の「視ること」とはそうした両義性を同時に認識し体現することだ。
「視ること」は『城のある町にて』で次のように具体的に表わされている。
今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。
白堊の小学校。土蔵作りの銀行。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような格好に刈られた松も見える。みな黝んだ下葉と新らしい若葉で、いい風な緑色の容積を造っている。
遠くに赤いポストが見える。
乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。--
この色彩豊かな描写は近代遠近法に基づいておらず、主人公は消失点の如き存在ではない。色彩の対照や調和の構成は彼の「心」そのものである。色彩が彼を変化させ、色彩は彼に答える。色彩は眩いばかりの運動を秘めた悲劇的な現実であり、梶井はその現実に身をゆだね、「悲しいまで」に陶酔する。梶井の文学は、全身を震わせながら、この現実の「悲しいまでの」抱擁の感動に陶酔することだ。梶井の作品はこのような鮮烈な澄明さに満ち溢れている。それは、近代認識論的な遠近法に違和感を覚え続けたヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵画に見られる表現である。
梶井の作品は透明度の高い鮮明な色を印象づける。こうした色彩を考慮するならば、『檸檬』の主人公が宮廷を中心に受容された古代ギリシア=ローマを規範とし、格調の高い均整のとれた古典主義の「体系的様式」(ジンメル)の巨匠アングルに満足いかなくなるのも当然である。印象派は、マネやモネ、ドガ、ルノワールなどの前期においては、色調の分割によって外光の効果を表わし、光と影の色彩を感覚に基づいて追及したわけだが、セザンヌやゴーガン、ゴッホの後期では、視覚尊重にとどまらず、自然を把握する際に主観の構成する力を重視して表現している。
前期印象派の絵画は色の濃淡そのものを遠近法として用いる。だが、梶井の作品の色彩には濃淡によるコントラストがない。さらに、ここには「その下」や「遠く」という言葉が登場しているだけで、「深い」といった奥行きを喚起させるものは一切用いられていないように、奥行きを感じさせない。梶井の作品が「今、空は悲しいまで晴れていた」という感じることと考えることは渾然一体となっている表現である。梶井の語り手は空を見た瞬間に悲しさを感じている。空を見た後に、悲しさを感じているわけではない。梶井の作品には時間にも奥行きがない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?