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リテラシーはたんなる利活用能力ではない(2015)

リテラシーはたんなる利活用能力ではない
Saven Satow
Oct. 10, 2015

「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」。
孟子

 最近、「リテラシー(Literacy)」が日本社会にも浸透しつつある。10年前と比べて、新聞や雑誌、テレビ、ラジオのマスメディア上でも使われる機会が多くなっている。21世紀を迎えた頃から「リテラシー・スタディーズ(Literacy Studies)」という批評理論を提唱してきた佐藤清文には感慨深いだろう。

 しかし、リテラシーという概念の意味を十分理解しないまま使っているケースが少なからず認められる。ビジネス書が「ITリテラシー」と言及する際、ITの利活用能力として使っている。しかし、リテラシーはその領域の抽象的・一般的共通知識を具体的・個別的場面で利活用できる能力である。共通知識は体系的・総合的カリキュラムを通じて学習される必要がある。

 リテラシーは、本来、読み書き能力を意味する。話し聞く能力であるオラリティは日常生活で身に付けられる。しかし、識字能力は文具体的・個別的な脈・状況に依存せず利活用できなければならないので、カリキュラムを用いないと、習得できない。

 だからこそ、リテラシー学習のための教育機関がある。リテラシーは暗黙知ではなく、明示知である。総合的カリキュラムが必要であるように、リテラシーは基礎的な体系的知識である。身体的・手続的にではなくて、形式的・宣言的に理解していなければならない。

 リテラシーが何かをよく示す次の二つの教育心理学の研究を紹介しよう。1980年代、ブラジルには満足に学校に通えず、路上で物売りをして生計を立てる子どもたちがいる。ところが、彼らは商取引の際に計算ミスをしない。いずれも彼らを対象にした計算をめぐる研究である。

 最初に、G・ザックス(Geoffrey Saxe)によるキャンディ売りの少年について観察研究を紹介しよう。彼は12歳で、通学経験は1年かだけである。心理学者が彼に利益や価格に関して質問すると、こんな内容を答えている。

 その日は、30本入りのキャンディ1箱を8.000クルゼーロで卸売から仕入れ、3本1組1.000クルゼーロで売っている。1箱1万クルゼーロで売るから、この価格に設定し、儲けは2.000クルゼーロだ。2本で1.000クルゼーロなら高くて売れないし、4本で1.000クルゼーロでは儲けが薄い。こう解説し、すべて自分で考えたと言っている。

 他のキャンディ売りの子どもたちも同様の計算力を示している。その際、通学期間との因果性は認められない。学校に長く通っている子どもの方ができるわけではない。

 この子どもたちの計算力は驚くべきものがある。売れる量を予想して仕入れ、期待する売り上げと他の売り手との競争によって価格を設定している。また、1本ずつではなく、複数本1組として限界効用を考慮して売っている。

 しかも、80年代の中南米は年率500%のインフレが10年間続いている。物価水準がすぐに上がってしまうのだから、比率の計算も必要になる。子どもたちは極めて実践的な計算力を持っている。立派に小さな経営者だ。

けれども、この計算能力はリテラシーではない。オラリティである。具体的・個別的状況下で試行錯誤を通じて体得した知識だからだ。オラリティの学習には教育機関を必ずしも必要としないから、計算能力が通学期間と相関性を表わさないとしても不思議ではない。

 この結果を根拠に、習うより慣れろだとか、座学より現場だとか結論を導き出すのは早計である。ストリートで体得した知識が他の状況での計算に転移できるかどうかを調べる必要がある。キャンディの商取引の計算はできるが、それ以外はからっきしというのではその能力は限定的で、汎用性がない。

 次に、同時期に、同じくブラジルで、海岸のココナッツ売りの少年を観察したキャラはーとシュリーマン(D、W, Carraher, & A, O, Schliemann)の研究を紹介しよう。この少年の年齢や教育歴は不明である。ストリート・マスマティクスの限定性を明らかにしている。

 少年はココナッツを1個35クルゼーロで売っている。そこで、心理学者が10個欲しいけども、いくらになるかと尋ねてみる。すると、彼は3個で105クルゼーロだとして、それにその3個分の金額を2回足し合わせ、さらに1個分を加えて350クルゼーロと算出する。

 おそらくココナッツは、通常、多い時でも1度に3個までしか売れないのだろう。3個までの足し算ができていれば事足りる。それ以上の注文があった場合、その数量を3までの数の足し算に分解する。10個であれば、3個足す3個足す3個足す1個である。

 ところが、キャラハーらがこの少年にココナッツから離れて35×4を尋ねると、彼は20と答える。「2を繰り上げて2+3で5、かける4で20」と説明し、紙には「200」と記している。

 この掛け算は先のココナッツの金額計算に含まれている。しかし、経験から離れた抽象的な問題を概念操作によって解くことができていない。ココナッツであれば、ほとんど打ったことのない10個であっても、経験を応用して正しい解答を導き出せる。具体的・個別的な場面では計算ができても、それを離れて抽象的・一般的知識として会得していない。

 オラリティは身についているが、リテラシーはない。この知識は具体的・個別的な状況に依存しており、それと別の場面で利活用できない。路上で体得した算数は使い勝手が悪い。

 リテラシーの学習が必要であるのは、知識を具体的・個別的な文脈・状況に拠らず、利活用できるようにするためである。抽象的・一般的な共通理解でなければ汎用性はないのだから、これを会得しないでリテラシー云々という話はない。

 このようなリテラシー学習の際に、書くことを前提にして読むことを捉えるのを忘れてはならない。情報の非対称性があるからだ。新聞記事の書き方を知らなくても読める。けれども、書くことは難しい。そのための抽象的・一般的共通理解を利活用して、文章を構成しなければならない。リテラシーはつくる仕組み、すなわちその分野の文法である。

 メディア・リテラシーの必要性が説かれる時、批判的に読むことが挙げられる。情報の非対称性があるから、つくり手は受け手よりも自分お利益を優先しかねない。ただ、この批判的という意味はつくる仕組みを知った上でその妥当性を吟味することである。文法を理解しないまま読んでは恣意的になりかねない。

 基礎的な仕組みを知った程度で、作成できるわけでもない。リテラシー学習の重要なのは情報の非対称性を改善することである。これが野放しだと、恣意が蔓延る。
〈了〉
参照文献
三宅芳雄他、『新訂教育心理学概論』、放送大学教育振興会、2014年

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