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二刀流、あるいは二者択一の拒否(2018)

二刀流、あるいは二者択一の拒否
Saven Satow
Apr. 05, 2018

"The greatest player I ever saw was a black man. He's in the Hall of Fame, although not a lot of people have heard of him. His name is Martín Dihigo. I played with him in Santo Domingo in winter ball in 1943. He was the manager... I thought I was havin’ a pretty good year myself down there and they were walkin' him to get to me”.
Johnny Mize

 ルーキーの野茂英雄が1995年のオールスターに先発した時、アメリカ人はその姿を1981年のフェルナンド・バレンズエラに重ね合わせている。二人共にロサンゼルス・ドジャースの投手で、落ちるボールを武器に三振の山を築き、全米を熱狂させたからである。

 それから23年後の2018年、大谷翔平がロサンゼルス・エンゼルスでMLBデビューを果たす。その際、メディアは彼をベーブ・ルースと比較して取り上げる。二人共に投手兼外野手の二刀流だからである。

 確かに、ルースには二刀流の時期がある。彼は1914年にボストン・レッドソックスでMLBにデビューしている。入団から17年までは投手、ニューヨーク・ヤンキースに移籍した20年からは打者として主に出場している。二刀流の時期は18~19年の2シーズンである。18年が投手として20試合登板13勝7敗、打者として95試合出場・打率300・本塁打11、19年は17試合登板9勝5敗、130試合出場・打率322・本塁打29である。ちなみに、投手のルースがこの2シーズンの本塁打王である。

 ルースは主に投手として出場していた時期でも、打撃成績が非常によい。2割台の14年と16年を除くと、3割を超えている。しかも、ルースは16年に23勝、17年にも24勝を挙げている。3割打者で、20勝投手だ。

 チームとしては投手なら何人でも欲しいものだ。20勝投手を野手にコンバートするのはもったいない。とは言っても、投手でありながら、3割をマークするプレーヤーをベンチに置いておくのも惜しい。選手管理もはるかに緩い時代であり、幸い丈夫そうだからと登板しない試合は外野手としてベンチは彼を出場させている。

 当時の野球における本塁打の評価は低い。野球はさまざまな作戦によって得点を競うスポーツで、ファンも攻守の次の手を予想しながら楽しんでいる。ホームランは計算できない不確実なものであり、野球の醍醐味ではない。大リーグも反発力の小さい飛ばないボールを採用している。

 この支配的認識を覆したのがベーブ・ルースである。1910年代、10本も打てば、リーグ最多本塁打である。そんな時代に、投手のルースが野手以上にホームランを放つ。それは革命的な光景である。

 そのルースの放物線が野球の魅力を変える。絵になる本塁打は野球に詳しくなくとも楽しむことができる。そのため、ルースのホームラン見たさにスタジアムに新たな観客が押し寄せるようになる。この人気を受け、MLBも反発力を高めた飛ぶボールに切り替えている。ルースは打者に専念、大リーグは本塁打狂時代を迎える。

 打者ルースは野球を変えたが、投手を続けていたら、彼は革命を起こし得なかっただろう。1910年代の大リーグで最高の投手はウォルター・ジョンソンである。この人間機関車は歴代2位の通算417勝、同1位の完封110を記録している。シーズン30勝以上を何度も挙げた彼にルースの投手としての力量は遠く及ばない。ルースは打者に専念したからこそ革命児となり得たのであって、彼の二刀流は野球の転換期の産物である。

 野茂とバレンズエラの間は14年であるが、大谷とルースのそれは1世紀もある。大谷がルースと比較される理由の一つは、二刀流が稀だからだ。

 日本でも大谷以前の二刀流はわずかである。景浦將と野口二郎くらいだ。前者は、戦前、投手として最優秀防御率・最高勝率、打者として首位打者・打点王(2回)のタイトルに輝いている。後者は、戦前から戦後にかけて、投手として最多勝・最優秀防御率(2回)・最多奪三振のタイトルを獲得、打者として歴代3位の31試合連続安打を記録している。

 いずれも選手層が薄い時代のプレーヤーである。その背景から景浦は野手が投手、野口は投手が野手を兼ねたのが実情だろう。

 一方、かつてのMLBでは二刀流自体は必ずしも珍しくはない。イチローに破られる迄シーズン最多安打記録を持っていたジョージ・シスラーはウォルター・ジョンソンに投げ勝つ程の投手である。しかし、打撃に専念、4割を2度達成している。また、ジミー・フォックスは老種として入団後に野手に転向、首位打者(2回)・本塁打王(4回)・打点王(3回)・MVP(3回)・三冠王(1階)を記録したが、最後の現役シーズンに再びマウンドに登っている。なお、彼は映画『プリティ・リーグ』でトム・ハンクスが演じたジミー・ドゥーカンのモデルである。さらに、1930年代のヤンキースのエースだったレッド・ラフィングはルース以上の打力と評されている。ただ、彼は鉱山で働いていた時の事故により足の指が4本を失っていたため走れず、投手に専念している。通算打点273は現在も投手による打点としての歴代1位である。

 もっとも、二刀流と言っても、投打のどちらかに成績上の偏りがある。シスラーが二刀流を続けていたら、どうなっていたかは興味をそそられるが、4割を2回マークすることはなかっただろう。

 なお、本来の二刀流の意味は異なる二つの役割をこなすことではない。宮本武蔵は二刀流を片手で刀を使いこなせることとしている。日本刀は両手で握って構えるのが基本である。けれども、実戦では、片手だけで使うことがある。それに対応するため、普段から稽古して片手だけで刀を使いこなせるようにしておかねばならない。このように、二刀流は二本の刀ではなく、片手による操作が本来の意味である。

 日米を問わず、プロ野球史において真に二刀流と呼べるプレーヤーは、大谷以前には一人しかいない。それはマルティン・ディーゴ(Martin Dihigo)である。彼は右投げ右打ちで、捕手以外のすべてのポジションを守った経験がある。もちろん、それには投手も含まれる。

 ディーゴは1905年にキューバで生まれ、22年、国内リーグでプロ野球選手としてキャリアをスタートする。23年から米国のニグロ・リーグでプレーしたのを皮切りに、同リーグの他メキシコやキューバのリーグでも活躍、47年に実質的に引退している。

 ディーゴは、所属したすべてのリーグで、二刀流の成績を残している。彼はアメリカのみならず、キューバやメキシコ、ベネズエラ、ドミニカの野球殿堂にも名を連ねていることもあり、詳細情報をインターネットで知ることが容易である。

 概略だけ紹介しよう。ニグロ・リーグでの打撃成績は打率307・安打431・本塁打64・盗塁41、投手成績は26勝19敗である。リーガ・クバーナ・デ・ベイスボルでの打撃成績は打率.298・安打619・本塁打17・盗塁53、投手成績は107勝56敗である。メキシカンリーグでの打撃成績は打率.317・安打607・本塁打55・盗塁57、投手成績は119勝57敗である。タイトルは1926年と35年にニグロ・リーグで本塁打王に輝いている。他にもドミニカなどでもプレーしていた記録がある。

 通算252勝の投手が生涯打率307、通算安打数1657、同本塁打数136、同盗塁数151を記録している。まさに二刀流である。

 記録もさることながら、ディーゴが走攻守投の四拍子揃った驚異的選手だったという証言は少なくない。MLB史上最高の監督との呼び声の高いジョン・マグローはこれまで見てきた中で最も天性に恵まれたプレーヤーと称賛している。また、野球殿堂入りしたニグロ・リーグの強打者バック・レナードは史上最高の選手として彼を挙げている。さらに、ニグロ・リーグの名選手テッド・ページは彼の守備力をロベルト・クレメンテ以上と評している。右投げの250勝強の投手と言うと、大リーグでは251勝のボブ・ギブソンを思い起こす。ディーゴはボブ・ギブソンとロベルト・クレメンテを合わせたプレーヤーということになろう。

 大谷はディーゴ以来の二刀流である。それだけ二刀流は稀だ。二刀流が登場しない理由はいくつか考えられよう。投手としても打者としてもタイトル争いができるほどの実力を兼ね備えていなければならない。また、投手・打者・野手の練習・試合をこなせるだけの体力・気力が不可欠である。

 しかし、それ以上にプロ野球が二刀流を必要としないことが大きいだろう。優勝に不可欠だったり、野球を変えたりするのであれば、二刀流に需要がある。けれども、ディーゴが登場しても、そのような変化は起きていない。

 プロ野球は半年間、毎日のように試合を行う。フロントはそれを念頭にチームを編成する。制度としての蓄積もある。めったに現われない二刀流を前提に計画など立てない。天才に頼らずに凡人だけでも勝てるにはどうしたらよいかというイノベーションによってプロ野球は進化している。大したことのない選手だけであっても、統計学を利用して分業化を進めて編成すれば、チームが優勝できることは、実話を元にした映画『マネー・ボール』が描いている。アダム・スミスが言う通り、分業化の促進の方が成果を挙げる。

 変革につながらないことは、野球よりも二刀流が登場しているサッカーを見てもわかる。サッカー界にはここ20年の間に三人の二刀流が活躍している。メキシコのホルヘ・カンポスはGKの他、フォワードとしても出場している。また、コロンビアのレネ・イギータやパラグアイのホセ・ルイス・チラベルトはGKでありながら、FK・PKも蹴る。しかし、彼らの二刀流は個性を示すことがあっても、サッカーに変革をもたらしてはいない。

 ニグロ・リーグには、サチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンなど怪物のようなプレーヤーがいる。そうした中で、ディーゴが二刀流をなぜ続けたのかという疑問がわく。党首か打者かのいずれかに専念するという選択を拒絶した理由は何かと問わずにいられない。

 プロ野球において、多かれ少なかれ、プレーヤーは選択に直面する。その一つにポジションがあり、中でも、投手は特別である。投手と野手の間の選択は背反するからだ。一方を選んだら、他方は選べない。

 しかし、投手は一度経験すると、捨てがたい魅力がある。フィールドの中で他より高いマウンドに登り、ボールを投げて、ゲームが始まる。野手も打者も、その間、待っている。そういった投手は特別だという名言も少なくない。「飛行機や電車は俺が乗らなくても出発してしまうが、野球の試合はそうじゃない。俺がマウンドに立って投球を始めなければ、何も始まらない」(堀内恒夫)。「野球は一人でもできる」(江夏豊)。

 投手の魅力が捨てがたいことはイチローがよく物語っている。愛工大名電の投手として甲子園のマウンドを経験した鈴木一朗は、プロ入り後、打者に転向する。その後、彼は日米いずれでもヒットを驚くほど量産し、守備や走塁でも素晴らしい活躍を見せる。そんな彼でもマウンドに登りたがり、疑問の声もある中で、それを実現している。転向してどれだけ優れた成績を挙げても、一度経験すると、プロの投手の夢を諦めきれるものではない。

 二刀流はこの選択による断念を拒否することだ。ディーゴはそのプロ野球の二者択一の常識に挑戦している。その意欲が彼を不世出のプレーヤーにしている。

 プロ野球選手に限らず、人は生きていく中で二者択一に迫られ、少なからずの断念を経験する。その選択が好結果をもたらしたとしても、二者択一などせず、両立できたのではないかと想像したくなることもあるだろう。可能性が奪われない生き方もあり得たのではないかと熟慮する。二刀流を目にする時、人はその傑出した能力に驚くだけではない。二者択一と違うもう一つの生き方があると思わずにいられない。それが稀であったとしても、そう改めて思い直す。
〈了〉
参照文献
吉目木晴彦、『魔球の伝説』、講談社文庫、1994年

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