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You Like Bohemian─小林秀雄(7)(2004)

七 『感想』と『本居宣長』
 小林秀雄は『感想』を「純粋経験」を起点にして次のように展開している。

 体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一ったん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其処から、新たに言葉を発明する事を強いられる。ベルグソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果して詩人の特権であるか、それとも詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われて了った当り前な人生の真相なのであるか、という事であった。

 小林秀雄がこのフランスの哲学者に見たものは近代によって失われた生の感覚である。こうした視点から、ベルグソンをめぐる読解が進んでいく。秩序化され、主観と客観に区別される前の直接的な経験をベルグソンは「純粋経験」と呼んでいるが、小林秀雄がこの作品を通して「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”」である純粋経験をどう言葉にするかを追求していく。ベルグソンを援用しながら、心身の関係を語って、物の経験をたどり、その道を逆に戻って見せる。ほかには、「純粋持続」や「エラン・ヴィタル」、「直観」といったベルグソン特有の用語の意味を明らかにしたり、近代科学と哲学に関するベルグソンの考えを説明したりもしている。

 ベルグソンの二元論を解き明かしながら、小林秀雄は『感想』を次のように中断する。

 ここで、又、ベルグソンの二元的な物の見方の意味を取り上げるのは、彼が、哲学者として、科学をどう考えていたかという問題に緊密に繋がっているからだ。彼が、哲学とは「」だ、意識の根底から衝動によって外に推戻されるエランだ、という言葉で、現したいのは、私達の過去から現在に向う経験の持続、言わば生きられる時間の厚みなのであって、対立する関係にあるものとしての、この厚みの診断が、彼にとっては哲学の仕事だと言える。従って、彼の仕事に於ける科学の位置は、そこから自然と決定される。哲学と科学とは、意識経験の展開する方向が異なる。意識の外界に向う方向が辿られれば、必然的に科学が結実するのだが、哲学は、それが経験の全部ではない、逆な方向に向う経験も同時に存するという事実を容認するだけの事で、それ以上の何を仮定するものではない。科学の上に立って、科学の特殊な諸領域を綜合した知識を求める仕事ではない。哲学に科学を否定する力がある筈もなし、これと矛盾する性質もあってはならない。ベルグソンの仕事は、この経験の直観に基づくのであり、彼の世界像の軸はそこにある。「哲学はユニテに到着するのではない。ユニテから身を起すのだ」。

 こうして中断された『感想』の問題は、『本居宣長』でさらに詳細に考えられていく。『本居宣長』は小林秀雄の批評の集大成であり、彼は宣長をパンクとして読んでいる。虚飾を剥ぎとり、荒々しい単純さと率直さに満ち、洗練されない「生(き)」の言葉の感触を表現する理論家である。小林秀雄は「正確さ」を求めるアカデミズムのエスタブリッシュメントになることを拒否したのであり、彼の批評はパンクと呼ぶにふさわしい。それが彼の批評の集大成である。

 小林秀雄は、芸術論から始まり、美学を経て、言語論へと至るが、その際、宣長の「古学」の成立過程、『源氏物語』読解、「歌」論そして『古事記』注釈をたどっていく。『源氏物語』に関する宣長の読みを語る頃から、実質的な主張が始まる。彼によれば、宣長が紫式部に見たのは「『物のあわれ』という王朝情趣の描写家ではなく、『物のあわれを知る道』を語った思想家であった」。「物のあわれ」ではなく、「物のあわれを知る道」が芸術の本質であると紫式部は示している。

 宣長は、「動く」「思う」「知る」「感ずる」という言葉を、その時その時で、同じ意味合いに使う。「物の哀をしる」とは、「自然としのびぬ所より感ずる」事だ。「世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀はある」が、そのどれを選ぶかは、私の自由だというような事はありはしない。私が「哀」を求めて、それを得るのではない。むしろ私が「哀」に捕えられ、「哀」をしらされるのだ。事に触れて心が動くとは、私は全く受身で、無力で、私を超えた力の言うがままになる事だ。

 美は人と「超えた力」との絶対的な関係によって生じるのであって、芸術表現はそれをきっかけにする。

 誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを絶え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずから文ある声の「カタチ」となって捕えられる。宣長に言わせれば、この「カタチ」は、悲しみが己を導くその「シカタ」を語る。更に言えば、「シカタ」しか語らぬ純粋な表現である。

 既存の整理された言語体系では「捕えどころのない」感情を覚えた時に、心が動き、「文ある声の『カタチ』となって捕えられる」。こういった認識は、近代を生きる者にはわかりにくいが、神代の人々にとっては自然なことである。

 神代の人々が、言語とは何かという問題で、頭を悩ましたわけではなかった。ただ言語を信じ、言語活動のうちに素直に生きていたのだが、言語はそういう人々にしか見せない顔を見せていたと、そう宣長は考えている。言語組織に関する分析的な考えでは、到底摑む事の出来ぬ言語の生態が、全的に掴まえれている。要するに「神代紀」から引用しながら、宣長が願い描いたのは、磐戸の中の日ノ神と外の神々との間を取り結んでいる「言霊」の「幸わう国」であった、と言っていいだろう。

 宣長が神代の人間の「古語」に見たのは体系化される前の言葉の状態である。秩序化された言葉は人の心を縛る。そういった拘束から「自由」に言葉を感受することを体系化されてしまった言語を用いて説明するのは困難である。「やまとごころ」が日本古来のものであり、「漢心」は外来思想だということを意味しない。小林秀雄は、一定の秩序に基づいて世界を認識してきた結果、失ったものは何か問っているのであって、復古主義を主張しているわけではない。「意識的に」批評から「すべての虚飾を剥ぎとり、基本に立ち返った新しい」批評の「形式を生み出そうとした」のであり、「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”」を批評で「表現することが可能だということを証明」しようとしたのである。

 小林秀雄は宣長に自分自身を重ね合わせて、論を展開している。宣長は、上田秋成のような当時の学者から、手法が非学者的であり、説得力を欠いていると非難されている。ところが、宣長はそういった批判を無視し、概念を定義せず、ただ「神代紀をよく見よ」と繰り返すだけである。けれども、小林秀雄によると、「秋成の論難の正確さなど、今更、とやかく言うことではないのだ。問題は、宣長の側の、秋成を憤慨させた徹底的な拒否にある。何故そこが問題かというと、この拒否のないところに、彼の学問も亦ないからである」。これは小林秀雄自身にも言えることである。小林秀雄の宣長論も、実証性を重視するアカデミズムから見れば、異論も多いことだろう。しかし、小林秀雄はそれに対して「徹底的に拒否」するし、またそこに彼の批評がある。

 この二作のみならず、彼が愛するアルチュール・ランボーやビンセント・ヴァン・ゴッホ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはたんにエキセントリックなボヘミアンというだけでなく、シンプルさに基づく、フリーを目指したパンクな芸術家である。小林秀雄は既存の美意識に挑戦する率直なエネルギーを追求するものを好む。また、宣長にしても、当時主流の学問は漢学であり、国学は歴史の浅い傍流にすぎなかったのであり、パンクな学者である。

 それどころか、小林秀雄は西洋近代合理主義の根源と見なされているルネ・デカルトさえパンクだと公言してはばからない。彼の『常識について』によれば、ルネサンスという経済的力によって後押しされた時代に、スコラ的神学の代わりに登場した合理主義は現実主義に即しているのであり、合理的理性は人々に富や物質に執着するようにさせ、精神性を見失わせたのであって、デカルトはその精神性を復権しようとしたというのだ。デカルトが世界は精神と身体の延長からなっているという見解は、近代人の自意識がもたらす誤読にすぎない。「言ってみれば、この分裂があるからこそ、私達の真理探求の努力が生じていると信じてみよう。この確信が、いよいよ固まるとは、完全な善意の神というもう一つの秩序を暗黙のうちにせよ、許し、信じていなければ不可能な事ではないか。これが、神の存在の証明、少なくともその中心動機をなすものの一切である」。

 小林秀雄にとって、座談会『近代の超克』の中で、「要するに近代性の克服とは西洋近代性の克服が問題だ。日本の近代性の克服なんぞはわけはない」と発言しているように、近代はエスタブリッシュメントを意味する。彼の近代批判はエスタブリッシュメントへの違和感である。こうした小林秀雄の継承者としての吉本隆明の「自立」は「インディーズ(Indies)」、すなわち[独立系]と理解すべきだろう。

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