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石原慎太郎東京都知事、あるいは声の大きい人(2009)

石原慎太郎東京都知事、あるいは声の大きい人
Saven Satow
Nov. 20, 2009

「政治とは明日枯れる花にも水をやることだ」。
大平正芳

 石原慎太郎東京都知事は典型的な「声の大きい人」である。それは大声を上げて相手を威圧し、その場の雰囲気を支配して、交渉を自分に優位に運ぼうとする人を意味する。

 声の大きさが、交渉の場で、しばしば戦術として用いられる。声高さは攻撃性を見せ付けて、相手に踏みこませんとしている。それは守りが弱いと言っているのに等しい。隙を見せて、おびき寄せ、自身に有利にことを運ぶまでの余裕がない。

 声の大きさに物を言わせる交渉人は、支援している業界や組織の代理人か当事者のいずれかである。前者の方がより戦術性が高い。石原都知事はこの後者に属する。対応策は場を支配させないように講じし、孤立させればよい。冷ややかなしらけた雰囲気では、自分が間抜けに思えてしまうものだ。

 特に、いわゆるタレント知事は孤立を嫌う。

 メディア・タレントにとって、話題は絶対値である。正である方が望ましいが、無視されるくらいなら、思いきり顰蹙を買い、負でも厭わない。

 また、世間の感情や価値観、判断を取り入れることでメディア・タレントとして生き延びる。有名なメディア・タレントはこうした反応がいいというだけで、個性的に見えて、実は、無個性である。その言動は場当たり的・短絡的で、総合性・体系性を欠く。

 孤立を回避する術に長けているので、メディア・タレントは、選挙で驚くほどの票を集められる。しかし、この二つの特徴から、こういった人物には自分の感情を正当化するためにものを考え、堪え性がなく、責任を回避する傾向が認められる。

 それは、当然ながら、政治家に必要な資質ではない。政治家は社会的問題を政治課題として把握し、対策を考案する。その政策は断片的であってはならない。タレント知事による話題づくりは、事実、単発的で、尻すぼみに終わることが多い。しかも、一連の失政は、後々、有権者への負担につながるけれども、孤立しないように振る舞い、情報公開をうまくすり抜けるので、見逃されてしまう。

 まばたき閣下に戻ってみよう。石原都知事は困ると、みっともないくらいにまばたきが多くなる。チキンハートを大声でマッチョに見せかけていると推察できる。下手な演技であり、弟の裕次郎のような偉大な俳優と違い、とんだ大根だ。なるほど賢弟愚兄である。

 石原都知事は、朝日新聞によると、2009年11月18日、さいたま市で開かれた8都県市首脳会議において、雇用対策についての協議中に、「自治体は国以上のきめの細かい努力をしていると思う」のに、「就職を探しても、それ嫌だ、これも嫌だ、あれも嫌だ。生活保護をもらった方が楽だという価値観、トレンドは、現場で事例を考えている自治体が国に、こういうものをどうするのかと言った方がいい」として、「甘えているところがある。被害者意識ばかりあってね」「生活保護を受けたいというのは、我々がやっている努力と矛盾するところがある」と発言している。会議後、報道陣に対し、「仕事をあっせんしても嫌だという事例があちこちから報告されている」とその理由を説明している。これには自分の感情の正当化・堪え性のなさ・責任回避と揃っており、まさにタレント知事の典型的な思考パターンである。

 石原都知事の政治は、五輪誘致や外形標準課税の導入、俗物根性丸出しの外遊、気紛れな登庁が示しているように、主観的な判断とその合理化に費やされていると言って過言ではない。彼の声の大きさは自分のために使っているのであって、都民のためではない。そんな大きな声にはうんざりで、もう場は興ざめしている。そろそろお暇の時間だ。

 「(話の)わからん人が、『これは…』と演説しているでしょう。僕は心の中で最大限軽蔑しているわね。軽蔑したような顔をしないで、ほんとうは軽蔑している。そして、それを聞いてあげる。ただ、自分が軽蔑しているようなところへ政策判断がいっちゃいかんと」(竹下昇『政治とは何か─竹下登回顧録』)。
〈了〉
参照文献
竹下登、『政治とは何か─竹下登回顧録』、講談社、2001年

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