見出し画像

内・外・別(2012)

内・外・別
Saven Satow
Oct. 25, 2012

“The problem we're trying to solve is that there are rich teams and there are poor teams, then there's fifty feet of crap, and then there's us”.
Billy Beane “Moneyball”

 日々、さまざまなニュースや人に接し、人はそれを自分なりに認識に位置づけながら理解している。その際、世界を内・外・別の三層構造で認知する。これは言葉遣いを例にすると、わかりやすい。

 「私、吉田商事の岩田と申します。野村社長はいらっしゃいますか?」という電話に、秘書の女性が「申し訳ございません。野村は今席を外しておりますが」と応対したとしよう。社長は社内で彼女より地位が上だが、身内なので敬語を使っていない。他方で、電話の相手は外の人だから、敬語で話している。これが内と外との関係である。

 今度は、彼女に卑猥なイタズラ電話がかかってきて、「バカじゃないの!」とレディらしからぬ言葉遣いで切ったとしよう。相手は彼女にとって別に属しているので、敬語を使っていない。

 なお、上下よりも内外が優先される敬語のルールは昭和30年代以降に定着したと見られている。ただ、現在でも、話し言葉では上下が内外よりも強い地域もある。関西における夫人同士の会話で、「うちのお父ちゃん、言うてはる」と話すことがある。これがその例である。東京であれば、「宅が申しておりました」や「うちの宿六が言ってんのよ」となる。

 外は内と関わり合いを持って一つの社会を構成しているのに対し、別は無関係である。ただし、これはあくまで認知であって、実態を反映しているとは限らない。別は憐みや好奇、不快などの対象として認知される。伝統的に観光の対象となってきたのはこの別世界である。

 人は状況よりも、内的属性に原因を見出す傾向がある。これを社会心理学では「根本的な帰属の誤り(Fundamental attribution error)」と呼ぶ。新奇の対象に直面すると、人はそれをまず別に置きたがる。その後、認識の変化を通じて、コンテクストへの理解も進み、外として考えるようになるものだ。外と内の関係は四つに大別できる。

 第一が内の補完としての外である。外と内はその発生において相互に関連していない。けれども、内を維持するために、外は必要である。社会内部にとりこまれたけれども、その社会自体への批判は介在しない。これは別が外と化したと考えればよい。かつてお祝い事に芸人が欠かせなかったが、彼らの存在がこの例である。

 第二が内の疎外としての外である。内の矛盾や葛藤、軋轢などが外を生み出しているという認識である。この段階で対象が社会問題として把握される。それは社会批判につながり、政府に解決すべき課題として取り組むことが要求される。これは例を挙げるまでもない。

 第三が内の調整としての外である。内と外との往来は双方向的である。内を恒常的に保つために、外を必要とする。「雇用の調整弁」といった考えがこれに当たる。外にいることが運や内的属性に求められるようになり、社会問題としての解決意欲が鈍る。

 第四が内に遍在化した外である。従来外にあったものが内に入りこみ、あちこちに点在する。しかし、内に同化はしない。イメージしにくいかもしれないが、薬物取引が住宅街やインターネット上で行われるようになった状況を思い浮かべればよい。しばしば社会不安として捉えられ、効果に疑問があっても、対応策として監視の強化を招く。

 ただ、自己防衛のため、この認識を操作する場合がある。対象が別世界に属していると思えば、それ以上考える必要はない。疎外として生じていることはわかるが、その手立てが思い浮かばないから、別に置くことにしよう。そんな自己完結的動機もあるだろう。言うまでもなく、社会的・精神的破滅を避けるにはやむを得ないこともあるので、一概に非難はできない。

 この構造的見方は非常に効果的である。問題や集団に関する認識の位置づけが適切であるかどうかを判断できる。認識変化をたどることで、政府の政策動向とその理由が明確化する。また、別々の問題や集団であるにもかかわらず、認識上同様に位置付けられているため、議論が混乱していたり、不毛に陥ったりしている事態にも気がつける。現代社会との共生を求めない集団がいた場合、この図式を活用すると、分類と対処の相違も明確になる。近代文明と距離をとる集団であれば、自ら別を選んでいると理解できる。他方、信念のためには社会秩序の破壊を辞さない集団なら、疎外としての外の反転と見なせる。非社会的集団と反社会的集団を同様に論じることは浅慮である。

 さらに、この捉え方を用いると、否定による規定が何かを考えているかのような錯覚を与えているだけで、実際には内容を伴っていないことも明らかになる。その対象が別に属していないという主張は、殊の外「地下」が大好きな村上春樹の小説やエッセイが典型であるけれども、通説がそうであった場合のアイロニーにすぎず、実質的に無内容である。別であるか外であるかではなく、それが内とどう関係しているかが以後の論点となる。

 オウム真理教や貧困、引きこもり、虐待、いじめ、薬害、米軍基地、原発、領土などさまざまな問題や集団が社会を覆っている。それらをめぐる言説を整理してその妥当性を吟味し、建設的な熟議につなげる。内・外・別を意識化することで、暗黙の認識を顕在化させ、その対象のコンテクストに目を向ける。

 もちろん、世界を三重構造として認知すること自体が狭量で、非寛容だと言っているわけではない。冒頭のイタズラ電話の例であれば、「承知致しました。そちら様のコンテクストがこのようなお電話を私どもになさっている理由なのですね?どうでしょう、認知行動療法をお受けになってみては?」などと答える必要はない。相手のコンテクストがわかっても、自分のそれが見えていなければ、対象をめぐる発展的議論は望めないからだ。

 自分を内に設定した世界の認識についてここまで語ってきたが、別や外に置いたり、それらを放浪したりする観点もあり得る。前近代の文学は、『西遊記』、のように、複数の世界を主人公が渡り歩く物語がよく見られる。読んでいて面白いけれども、認識の深まりはない。今日国際的に支配的なポリアーキー社会では、多数派を内とする認識の変化から問題や集団への捉え方が左右される。見方の三層の構図に自覚的になることは、よりよい社会をつくるために、必要である。内側から考えることももっと突きつめてしかるべきだ。
〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?