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『ジョーズ』と新型コロナウイルス(2020)

『ジョーズ』と新型コロナウイルス
Saven Satow
May, 31, 2020

“A lot of the films I’ve made probably could have worked just as well 50 years ago, and that’s just because I have a lot of old-fashion values(私の作った映画の多くは、50年前の人々の心にも響くと思う。なぜなら、私の価値観の多くが昔ながらのものだからだ)”.
Steven Spielberg

 新型コロナウイルスによるパンデミックに見舞われてからと言うもの、感染爆発を扱った小説や映画を改めて確認しようとする動きがある。けれども、実際に、パンデミックを経験し、日々のニュースや口コミなどから伝わってくる広範囲に亘る影響を目の当たりにした跡では、それらは失望を覚えざるを得ない。逆に、『ジョーズ』をパンデミック下で視聴すると、以前と違う印象を覚える。それは何も主演のロイ・シャイダーがエマニエル・マクロン仏大統領とルックスが似ているからだけではない。『ジョーズ(Jaws)』はスティーヴン・スピルバーグ監督による1975年のアメリカ映画で、原作は1974年に刊行されたピーター・ベンチリーによる同題の小説である。

 『ジョーズ』は、感染症を扱った映画以上に、今回のパンデミックにおける政治的・経済的・社会的影響を思い起こさせる。『コンディション』や『感染列島』など感染爆発を取り扱った作品は影響の広がりを十分に描いていない。感染力が強く、致死以率の高い感染症を取り扱うと、核戦争と同様、人類存亡の危機と状況設定できるので、さまざまな影響を描かなくてすむ。具体的題材でなく、抽象的構造に着目するなら、『ジョーズ』の方がはるかに新型コロナウイルスの時代の状況を捉えている。巨大ホオジロザメが新型コロナウイルスの比喩と理解するなら、休校などそこまでの広がりは取り扱っていないけれども、これは同時代的、あまりに同時代的作品である。

 アメリカ東海岸のアミティ島の浜辺に女性の遺体が打ち上げられたと連絡が入り、赴任したての警察署長マーティン・ブロディが現場に急行する。遺体はむごいありさまで、鮫に襲われて亡くなったという検視結果が報告される。それを受け、ブロディは速やかにビーチを遊泳禁止にしようとするが、ボーン市長が待ったをかける。島の主要産業は観光関連業で、特に夏の海水浴シーズンは稼ぎ時である。遊泳禁止措置を取れば、観光客の足が遠のき、島の経済に大打撃を与える。市長はそれを恐れ、船のスクリューに巻きこまれた事故死だと主張、ブロディも一旦引き下がる。ところが、その後、海で遊んでいた少年が鮫の犠牲になってしまう。彼の母はなぜ遊泳禁止措置を取らなかったのかとブロディを責め、鮫退治に懸賞金を出すと公表する。地元以外のメディアもこの人食い鮫のニュースを伝え、島は出入りする人々で混乱し始める。

 ここまでのストーリーでも、今回のパンデミックのエピソードと重なるところがある。中国政府が認めていない時に武漢の李文亮医師は新型肺炎の発生をSNS上で警告、それがデマを流したとして当局の取り締まりを受け、その後自らも感染して亡くなっている。また、経済活動を優先するために、ドナルド・トランプ大統領は新型コロナウイルスを軽視して対策を取ろうとなかなかしなかったし、ブラジルのジャイル・ボルソナロ大統領に至ってはメディアのでっち上げと存在自体を認めない。首脳がそうした姿勢のため、規制が遅れ、犠牲者を出してしまう。

 ブロディはビーチを閉鎖しようとするが、経済的損失を恐れる住民からも反対される。地元の漁師クイントが1万ドルの報酬を払うなら鮫を退治してみせると豪語、懸賞金目当ての連中も島にやって来る。苛立つブロディの元へ海洋研究者マット・フーパーが訪ねる。ブロディに案内された彼は最初の犠牲者の遺体をしらべ、それが大型の鮫による被害だと断定する。その頃、浜辺では地元漁師が仕留めたイタチザメを披露し、人々は人食い覚めが退治されたと湧き上がっている。しかし、それを調べたフーパーは特徴が被害者の遺体に残された痕跡と違うと指摘、念のため胃の中身を確かめるべきだと主張する。だが、市長を始め浮かれている住民は耳を貸そうとしない。

 その夜、ブロディはフーパーを食事に招待する。フーパーは人食い鮫がまだ捕まっていないとし、餌の供給を絶たない限り、狩場に居座り続けると訴える。そこで、ブロディはフーパーと共にこっそり捕獲されたイタチザメの腹を裂く。胃の中に人間の形跡がなく、例の人食い鮫でないことが判明する。フーパーは確認のため夜の海に船を出し、ブロディも同行、探知機の反応を目指して進むと、無残に破壊されて引っくり返った地元漁師の船を発見する。船底には大きな穴が開き、ホオジロザメの歯が引っかかり、船内には犠牲になった漁師の遺体が浮いている。

 懸賞金による鮫退治はワクチン・治療薬開発に重なる。政府や財団などがその研究に膨大な資金を投入している。パンデミックの終息は集団免疫の獲得かワクチンの開発によるからだ。承認済みの薬が治療に効果を上げたとの報道も時々伝えられるが、だいたいはぬか喜びで終わる。また、経済的損失を恐れる政治家や住民は事態の推移に慎重な見方をとる専門家の提言をあまり聞き入れない。都合のいい情報を優先したり、科学的根拠の乏しい楽観論を信じたりして、専門家を疎ましく思う。これらはトランプ大統領の認知行動そのものだ。

 翌日、ブロディとフーパーは市長に昨夜の件を報告するが、無視される。市長は海開きを宣言、ビーチには人食い鮫の捕獲を信じた大勢の観光客で溢れかえる。鮫の背びれが海中から出現してパニックが起きるものの、子どもの悪戯と判明する。しかし、ホッとしたのもつかの間、その直後に本物の人食い鮫が現われ、犠牲者が出てしまう。事の重大さを認識し、病院で街のためだったと言い訳をする市長にブロディはクイントを雇うように強く進言、承認を取りつける。クイントが指揮を執り、ブロディとフーパーが助手として彼の船に乗って、鮫退治に出港する。

 政治指導者は安全が確保できていないという専門家の意見に耳を貸さず、経済活動の再開をすすめる。住民も生活がかかっているからそうした方向を望む。政府が休業補償するならともかく、そう簡単に規制に応じられない。しかし、その願望的見通しが痛ましい犠牲をもたらしてしまう。理解すべき事情があるとしても、他人事という認知行動が犠牲の増加につながる。また、死亡者数が他の死因と比べて多くないので、政府は外出制限策をとる必要がないとはならない。その野放図さが被害の拡大につながるからだ。実際に対応を現場で担うのは専門家であり、結局、事態収拾にはその力に頼らざるを得ない。

 クイントとフーパーの折り合いが悪く、ブロディも船乗りは初めてで、鮫退治への思いは共有していても協力がなかなかできない。その時、3人の目の前に巨大な人食い鮫が姿を現し、ブロディは後ずさりして「あの鮫と戦うにはこの船は小さすぎる」とつぶやく。クイントは樽をロープでつないだ銛を鮫に突き刺すが、それをつけたまま海中に潜っていく。日没が迫る中、クイントは海上で夜を明かすことを決意する。

 夜、酒が入って、クイントとフーパーは意気投合する。フーパーがクイントの腕に刺青の痕を見つけ、彼が沈没したインディアナポリスの船員だったと知る。クイントが大勢の仲間と海に投げ出され、鮫の群れに襲われ続けた恐怖を語り始めた時、船内に鮫の襲撃による衝撃が走る。翌朝、クイントは姿を現わした鮫に再び銛を突き刺し、3つの樽をつけることに成功する。さすがに潜れないだろうと自信を見せたクイントの前で、またしても鮫は樽と共に海中に消えていく。しかも、浅瀬に誘い出そうと無理に船を動かしたため、エンジンが故障してしまう。そこで、フーパーは硝酸ストリキニーネを取り出し、20cc鮫に注射できれば確実に倒せると2人に説く。他に妙案もない3人はその案に望みをかける。

 フーパーは、鮫の口内に銛で直接硝酸ストリキニーネを注入する作戦を考案、檻に入りって海中でその出現を待つことにする。ところが、鮫はフーパーの背後から襲いかかり、衝撃で彼は銛を落としてしまう。しかも、鮫の衝撃により織が壊れ、フーパーは命からがら脱出、海底に身を潜める。鮫の出現を知った船上の2人は急いで檻を引き上げるが、その中にフーパーの姿はない。そこへ鮫が襲いかかり、デッキに乗り上げたため、船体が大きく傾き、クイントはその口内へ滑り落ち、海に引きずり込まれていく。

 ブロディは沈む船内で酸素ボンベを発見、襲いかかってきた鮫の口にそれを投げつける。ブロディは穂先によじ登り、鮫が噛んだボンベを狙いライフルを発砲する。ボンベは大爆発を起こし、大量の血と肉片を撒き散らしながら鮫は死ぬ。そこへフーパーが現われ、2人は互いの無事と勝利を喜び、泳いで島に向かっていくのである。

 船は医療現場の比喩として理解できよう。相手は自分の経験や予想を上回る。医療従事者はその閉鎖空間で最善を尽くしているが、資源が十分ではなく、活動の中でそれも失われていく。しかし、助けは外部に必ずしも期待できない。人でも足りず、感染爆発地域では医学生も現場に入らざるを得ない。しかも、医療従事者がその過程の中で命を落としている。とにかく知恵を絞りだして治療に有効な手立てを試すほかない。もちろん、映画と違い、パンデミックは現在も続いており、この状況は終わっていない。

 この映画で人食い鮫はほとんど映像に登場しない。それは見えない恐怖として観客に迫ってくる。これはCOVID-19も同様である。新型コロナウイルスの姿を画像で多くの人々は知っている。だが、肉眼で見ることはできない。人々はインヴィジブルであるため、恐れ、不安になり、疑心暗鬼に陥る。その挙げ句、人格化して醜い行動にしばしば走る。

 パンデミックと無縁の『ジョーズ』がそれを扱った作品以上に影響の拡大などこの禍のリアルさを経験者に感じさせる。それは社会における相互性への理解・表現の違いだ。だから、50年前のみならず、45年後の人々の心にも響く。
〈了〉

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