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情報化社会と協律す(2)(2007)

第2章 協律へ向けて
 情報化社会は突如として出現したわけではない。それは、その前の社会の支配的な様式を引き継いで、発展している。インターネットが一般に浸透する前、同時代的に、その社会は「消費社会」と呼ばれていたが、今の社会は、さまざまな転換を含みながら、それに立脚している。

 需要が供給を生み出すのか、あるいは供給が需要を刺激するのかいずれにせよ、資本主義は欲求や欲望に支えられた消費を重要な動因としている。そうした消費の動向はその社会の資本主義的発達段階を示す一つの指標となる。アブラハム・H・マズロー(Abraham Harold Maslow)の欲求の分類に基づく自己実現理論は、消費から見た社会の発達段階を把握するのに、有効であろう。通俗的に理解され、ビジネス書あたりに利用されがちなマズロー理論であるが、資本主義の発展における欲望の社会的変容を考えるには、示唆的な階層説を提供してくれる。

 マズローは欲求を「欠乏欲求(Deficiency needs)」と「成長欲求(Growth needs)」に大別する。さらに、前者は「生理的欲求(Physiological needs)」・「安全欲求(Safety needs)」・「愛情・所属・社会的欲求(Love/Belonging/Social needs)」・「尊敬欲求(Esteem needs)」・「認知欲求(Cognitive needs)」・「審美的欲求(Aesthetic needs)」の六段階、後者は「自己実現(Self-actualization)」・「自己超越(Self-transcendence)」の二段階にそれぞれ分類される。初期の二段階は別としても、欠乏欲求が他律的であるとすれば、成長欲求は自律的である。

 これらは、下位の欲求が充足されると、上位の階層へ移行するという関係にある。食うや食わずの生活から脱却できると、安心して住める環境を求め、その後に、自分がある共同体に属した人並みの暮らしをしていると感じたら、周囲から認められる人になりたいと願い、それが叶ったと思えば、自分らしい生き方を捜し求めていく。それはまるで教養小説のストーリーである。

 世界は均質的に発展しているわけではない。しかし、日本を例にして考えて見ると、この過程は戦後の軌跡と重なり合う。焼け野原にバラックと闇市が広がる時代は生理的欲求が中心的だったし、占領終了から60年安保までは安全の欲求、三種の神器が象徴する高度経済成長期には所属の欲求、先進国入りし、世界第二位に経済大国となった頃は尊敬欲求に先導されている。

 消費動向における決定的な転換が1980年代に起きる。バブル経済を境に、欠乏欲求から成長欲求へとそのあり方が移り変わっている。この10年間は「高度消費社会」と呼ばれていたが、その消費をもたらしていた欲求は前半が審美的欲求であったのに対し、後半は自己実現の欲求である。表面的には、両者は似ているけれども、前者が他律的であるとすれば、後者は自律的であり、根本的に異なっている。

 それは糸井重里による西武関連の二つの有名なコピーを比較してみると、明瞭になる。1983年のコピーは「おいしい生活。」であるが、価値基準は他律的、すなわち社会の側にあり、欠乏欲求に含まれる審美的欲求である。「おいしい」が示しているように、消費は収入によって決定される。一方、1988年は「ほしいものが、ほしい」であるが、求める尺度は自律的、すなわち自分の側にあり、成長欲求に属する自己実現の欲求を表わしている。物が溢れているにもかかわらず、本当に欲しいものがないというメッセージは、ライフ・スタイルが消費の決め手になっていることを告げている。

 実際、この間に広告のメッセージも商品の宣伝から、提案へと変わっている。この商品がどれだけ優れているものであるかとか、人並みの生活にはこれが欠かせないとかなどとテレビのCMはもう訴えない。この商品を購入すれば、生活がどのようによくなるかとか、これは、実は、こういう使い方もあるとかといった具合に消費者に問いかける。この移り変わりは支配的欲求が同一・類似志向の欠乏型から個性的・多様的な成長型へとシフトしたことを意味している。

 この潮流は、1990年代に入ると、より顕著となる。消費者は大量生産大量消費に基づく商品を党派的に買うのではなく、多品種少生産の商品から好みに合うものを選ぶのを億劫に思わなくなっている。「他の人が何と言おうと、欲しいのはこれ」というわけだ。それは量から質への欲求の関心の転換でもある。

 インターネットに代表される新たなコミュニケーションの普及はこの自己実現の欲求を加速させる。自己実現を充足するのに、他人とは違う自己を表現しようと、より小さい方向へと向かっていく。森毅が分析している通り、アクセサリーのような小さな自己表現が主流となる。消費がそうした質的な満足を求める自己実現の欲求を満たすように行われるため、今まで売れていた商品が見向きもされなくなってしまう現象が起こり、企業や担当者は頭を抱えている。

 その好例が雑誌の不振だろう。最近、書籍の販売が復活してきたのに、雑誌が売れなくなったという新聞記事が掲載されている。2007年2月1日付『朝日新聞』によると、この10年間で雑誌の発行部数が軒並み落ちこんでいる。それは少子化だけでは説明がつかない。06年の推定販売額は約1兆2200億円だが、05年度と比べて、それは4.4%減であり、9年連続の減少である。

 雑誌は権威性と党派性という二つの特徴を持っている。信頼が置けるある雑誌を購入することは、その人のアイデンティティと言っては大げさかもしれないが、ある種の自己確認・主張を意味する。雑誌は他人が読んでいるから自分も読むという媒介された欲望によって消費されるのであり、それは他律的な欠乏欲求の表象にほかならない。審美的欲求と自己実現の欲求は、一見、似ているため、その違いを見逃しがちである。出版産業は見誤り、他人と違う自分を探す自己実現の欲求の時代が完全に出現したときに、戸惑うことになってしまう。雑誌の不振はそれが成長欲求に応えられていない証であろう。

 しかし、自己実現の欲求は、アメリカの単独行動主義が教えてくれるように、アポリアに直面してしまう。強迫観念的に自己実現に囚われ、あるべき自分自身へと自らを押しこめようとする。自律たらんとするあまり、他者を拒絶し、自己実現にもがき続ける。自分だけで自分自身たろうとするとき、人は「死に至る病」(ゼーレン・キルケゴール)へと陥るものである。

 中東で日本赤軍と行動を共にした映画監督足立正生は、2007年2月2日付『朝日新聞夕刊』のインタビューで、次のように答えている。

 日本に戻って、若者たちが僕らとは逆のしんどさを抱えていると感じた。枠を破るのではなく、なんとか収まろうともがく。皆が同じ問題に直面してれば連帯もできるが、今は個別にパッケージされてしまっている。まさに幽閉者。そんな若者たちと一緒に考える映画を作りたかった。

 自己実現の欲求の社会には、それ以前と違ったコミュニケーションの様式が必要となる。共通の基盤に立脚し、それに沿った他律的なコミュニケーションだけでは不十分であり、自律的なコミュニケーションの技術をもって臨むべきだろう。ところが、コミュニケーション自体を他律と素朴にも見なしてしまい、「自己主張」と信じられている独善的な自己絶対化に終始してしまいかねない。また、デジタル技術はうまく使いこなせても、フェース・トゥ・フェースのコミュニケーション能力が脆弱になるというアンバランスな人も少なくない。自律にしても、他律にしても、どちらも不可欠であって、それを組み合わせ、新しい時代にふさわしい道徳律を生み出さなければならない。

 こうした状況から脱却するために、さらなる成長欲求へと発展していかざるをえない。将来的な消費は、マズローに従うならば、「自己超越(Self-transcendence)」を目指すことになろう。

 けれども、これをスピリチュアリズムや神秘主義と結び付けるべきではない。ICT社会の別称の一つとして「ユビキタス社会」がある。「ユビキタス(ubiquitous)」は、キリスト教神学の内在=超越における「内在(immanence)」に由来している。超越もこのユビキタスを踏まえた概念として理解するのが賢明である。

 超越は、情報化社会の要件を考慮するなら、協同的なものへの志向である。ウィキペディアの記述内容の間違いを見つけようとせず、それを信じこんでしまうというのは、ICT社会におけるオープン・アーキテクチャの原則──「みんなで作り、みんなで直す」──を踏まえていない。大部分の欠乏欲求は他律的であり、自己実現の欲求が自律的であるとすれば、自己超越は「協律(conomy)」と言えよう。それは「他律(heteronomy)」=「自律(autonomy)」の拮抗の弁証的な統合である。

 自己超越の欲求による消費の兆候はすでに現われている。ユニバーサル・デザインや環境負荷の少ない商品の使用・購買はクールであり、動機はどうあれアカデミー賞の受賞式にハリウッド・スターがエコカーで乗りつけるように、徐々に、トレンドとなっていくだろう。持続可能な社会へ寄与したいという思いは自己超越の欲求の表象であり、それは協律へとつながっている。

 ICT社会の公共性はこの協律にほかならない。それは自分を抑えることでも、背伸びをすることでもない。自己をより成長させていこうとする意欲に基づく協同学習の道徳律である。「教わる」から「学ぶ」、さらに「協同で学ぶ」へと成長したわけだが、リテラシーやコミュニケーションが伴っていなければ、他律へと舞い戻ってしまう。協律は多様さと異質さ、個性が尊重されながらも、ユニバーサルな社会の規範である。それへ向けて、より向上していくリテラシーとコミュニケーションを学ぶことが求められている。
〈了〉
参照文献
柏倉康夫=林敏彦=天川晃、『情報と社会』、放送大学教育振興会、2006年
坂村健、『ユビキタス・コンピュータ革命』、角川oneテーマ21、2002年
佐藤学、『改訂版教育の方法』、放送大学教育振興会、2004年
森毅、『ぼちぼちいこか』、実業之日本社、1989年
ゼーレン・キルケゴール、『死に至る病』、斎藤信治訳、岩波文庫、1957年
テオドール・W・アドルノ、『ミニマ・モラリア』、三光長治訳、法政大学出版局、1979年
ユルゲン・ハーバーマス、『公共性の構造転換 第二版』、細谷貞雄他訳、未来社、1994年
エドワード・W・サイード、『増補版イスラム報道』、浅井信雄他訳、みすず書房、2003年
アブラハム・H・マズロー、『人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ』、 小口忠彦訳、産業能率大学出版、1987年
アブラハム・H・マズロー、『完全なる経営』、金井壽宏他訳、日本経済新聞社、2001年
エドワード・ホフマン、『真実の人間―アブラハム・マスローの生涯』、上田吉一訳、誠信書房、1995年
エドワード・ホフマン編、『マスローの人間論―未来に贈る人間主義心理学者のエッセイ』、上田吉一他訳、ナカニシヤ出版、2002年
Project2061, SFAA
http://www.project2061.org/publications/sfaa/online/sfaatoc.htm
The Maslow Nidus, Maslow org
http://www.maslow.org/
Ana Marie Cox, “The YouTube War”, Time, Jul. 19, 2006
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1216501,00.html
Noam Cohen, “A History Department Bans Citing Wikipedia as a Research Source”, New York Times, Feb. 21, 2007
http://www.nytimes.com/2007/02/21/education/21wikipedia.html?ex=1329714000&en=156f770bd93c4fa0&ei=5088&partner=rssnyt&emc=rss
Tim Weber, ”BBC strikes Google-YouTube deal”, BBC, Mar, 2. 2007
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/6411017.stm

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