なぜ生きるの?その答えは?
なんで生きるんだろう?
生きる意味は?目的は?
こんなことを考えたことはないでしょうか?
物語の主人公は何か使命が与えられ、その使命のために自分の命を燃やしてたりします。
それを見ていいなと感じて、自分の使命はなんだろう?
と考えたことはないでしょうか?
毎日通勤電車に揺られ、仕事を頑張っているときにふと「なんで頑張ってるんだろう?」と思ったことはないでしょうか?
毎日学校に行き勉強していて「なんで頑張ってるんだろう?」と疑問に思ったことはないでしょうか?
生きる意味・目的が分かると上記モヤモヤが晴れてスッキリします。
そして、揺るがない自己の形成に役に立ちます。
揺るがない自己、ちょっと分かりづらいかもしれません。
それは、全ての物事の判断基準が明確になると言い換えてもいいかもしれません。
学校で職場で、辛い立場に追いやられたときに、立ち向かうか逃げるかなど大きな決断を迫られることが人生にはあります。
そんなとき、決断をするための基準の一つであり大元の基準である「自分は何のために生きているのか」が明確だと悩まず決断できます。
また、自分の決断に対してその基準が背中を押してくれます。
では、なんで生きるのか?についての答えを書きたいと思います。
これは山田教の教えです。山田教については最後にリンクを張っておきますので、興味が沸いた方は是非閲覧してみてください。
「なぜ生きるのか?」
それは・・・
「幸せになるため」
です。
なんだよ、もっと面白い答え期待してたという方いらっしゃるでしょうか?
すみません、山田教ではなぜ生きるのかの答えは「幸せになるため」なんです。
シンプルな答えですよね。他宗教でも語られていたりします。これが正解だと思っています。
少し私の話をします。
私は昔、「誰かのためになること」が生きる目的だと思っていました。
物語では誰かのために命をかけて頑張る主人公の姿が描かれていました。
それに影響を受けたのかもしれません。
または、誰かの役に立った時、感謝され自分が存在してもいいのだと感じたことがきっかけだったのかもしれません。
そして、私は誰かの役に立つことを目的に生きてきました。小学校のとき友人から言われた「一家に一台山田くんだね」を最高の賛辞だと思っていました。
学生時代は「誰かのためになること」を信条に生きるで問題ありませんでした。友人に恵まれていたからです。
しかし、社会に出て問題が発生しました。社会では私を自分の幸せのために使い潰そうとする輩が現れました。
便利な道具扱いです。その頃には私の精神状態はおかしくなっており、「便利なハサミでなければ存在する価値がない」と思っていました。自分で自分を道具扱いしていたのです。
生きる目的を「誰かのためになる」と他者に委ねたことがことが問題だと思っています。この生きる目的では誰かに「お前使えないな」と言われた瞬間、存在意義を失ってしまいます。これでは弱いのです。自分では操作することができない環境や他者に自己の存在理由を明け渡してはダメなんです。
「幸せになるため」
シンプルに自分が幸せになるために生きる。これが正解だと感じています。
世の中に不幸になりたい人はいるでしょうか?
恐らくいないのではないでしょうか?
皆「幸せになるため」に生きているのです。
自分が幸せになるために他人を利用する人間がいます。
そういった人物に出会った際に「誰かのために」を信条に生きていると利用されて終わりです。
ジャンケンで相手がグーを出しているのに、自分はチョキを出せば負けるのと同じです。
相性が悪いのです。
そんな人とは距離を取ればいいのですが、社会で生きていると距離を取るのが難しい場合があります。
その場合「なんで生きているんだろう?」と思い悩む日々になるでしょう。つまり、「誰かのために」では生きづらい世の中なんです。
「誰かのために」これは素晴らしい考えだと思うのですが、明確な欠点があります。
それは自分を尊重していないということです。
「誰かのために」なるのであれば自分を犠牲にする精神ということです。
自己犠牲は美しく映るかもしれませんが、自分を大事にしないのは問題です。
いつか私のように壊れてしまいます。
そして、多くの方が語る「自分を大事にできないと他人を大事することができない」これも真理だと思います。
自分を大事にすると、例えば、時間は命の長さだから大事にしようと思ったら、他人の時間を奪うというのは他人の命の時間を奪う行為だと尊重できるといったように他人を大事にすることができるようになります。
自分の夢を大事にしているのであれば、夢を貶される・否定されることの辛さが分かるから、他人の夢に対して貶したり・否定したりしない大事にすることができると同じです。
自分を大事にできると他人を大事にすることができるのです。
自分を大事にしていないで「誰かのために」行動したとしても本当の意味で「誰かのために」にはなっていないのです。
「幸せになるため」
自分の幸せを第一に考える考えで自己中心的な考えではないか?と思う方もいらっしゃるかもしれません。
パートナーや子供や犬や猫といった家族がいて「家族のため」を信条に生きている人には自分の幸せのために生きるというのは違うと感じるかもしれません。
しかし、違いません。
自分の幸せを考えたとき、家族が幸せであるというのが、自分の幸せであると思うのであれば「自分の幸せ」の中に「家族の幸せ」が入っているのです。
例えば、自分が住んでいる村などの共同体があるとします。自分が幸せであるためには共同体が幸せであることが必要であれば、共同体の幸せが自分の幸せの中に入ります。
例えば、日本に住んでいて、自分の幸せのために日本が幸せであることが必要であれば、日本の幸せが自分の幸せの中に入るのです。
例えば、世界が幸せであることが自分の幸せに必要であれば、世界の幸せが自分の幸せの中に入るのです。
自分の幸せというのは、自分一人だけしか入らない器ではなく、世界すら入る器なんです。
「幸せになるため」
これは決して自己中心的な考えではないんです。
そして、自分が生きるのは「幸せになるため」だと結論が出たら、他人も「幸せになるため」に生きているのだと考えましょう。
そうすると自然と他人の人生を尊重することができるようになります。
そして、自分を利用しようとする人に対しても理解を示すことができるようになります。
「幸せになるため」
これを生きる目的に据えると良い事があります。
最初に述べましたが、判断基準が明確になります。
例えば、辛い仕事があって「なぜやらなければならないんだ」と思ったとき、自分は「幸せになるため」に生きていると考えます。
自分の幸せのためにこの仕事を完遂することが必要だと思えば立ち向かう勇気が出てくるでしょう。
自分の幸せを見つめたときにこの仕事をやる必要がないと思えばやらない、例えば転職するなどの選択肢が浮かぶでしょう。
明確な判断基準は人生をシンプルにして、より美しいものにします。
「幸せになるため」という判断基準で行動することにより、より自分の人生が幸せに近づいていきます。
AとBという選択肢があり、幸せになるためにはAだと選び、後にCとDという選択肢が出てきて、幸せになるためにはDだと選んでいく。
幸せになるという基準で物事を選んでいけば、結果幸せに近づくという考えです。
最後に自分が幸せになることに力を注げない人へ
自分には幸せになる価値はない
そんな思いを持ってしまう人へ
そんなことはありません。
幸せになることは全ての人に与えられている権利です。
幸せになっていいんです。
幸せを目指していいんです。
幸せになりましょう。
価値は既にあるのです。権利は既に持っているのです。
幸せになる旅路の中でそれを感じることができるでしょう。
幸せになってそれを感じることができるでしょう。
生きる目的は「幸せになるため」なのです。
ここまで語ってきましたが、私は宗教的な教えというのは聞くだけ読むだけでは身に付かないと思っています。
この段階ではただ他人の意見を聞いただけだからです。
是非ご自身で考えてみてください。
「毎日働いているのはなぜ?」
↓
「お金を稼ぐため」
↓
「なぜお金を稼ぐ?」
↓
「生きていくため」
↓
「なぜ生きていく?」
↓
「???」
ご自身で「なぜ生きているのか?」という問に答えを出してみましょう。
山田教では「幸せになるため」という答えです。
他の答えがあるかもしれません。
この機会に考えてみてはいかがでしょうか?
あなたの人生がより良いものとなりますように。
山田教の教祖
山田教については下記記事をご参照ください。
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