見出し画像

5年前 <11>

手術後3日目の朝。今日は金曜日か。曜日の感覚なんてないんだけどね。
何回目かの味気ない食事にももう慣れたし、相変わらず口内洗浄はちょっと痛くて嫌だけれどジェットウォッシャーの使い方も慣れてきて噴き出す水を鏡に思いきり飛ばしまくってしまうことはなくなった。

朝一の検温の時に1日分の薬を看護師さんが持ってきてくれる。
「どうですか、痛みはまだありますか?」
「ないですね」
「じゃぁ、痛み止めはこれまでのように毎食後じゃなくて痛くなったら飲んで下さい。引き続き抗生剤と消炎剤だけは必ず飲んで下さいね」
やったぁ。段々と回復しているのが実感出来てありがたい。

うーん、麻痺がやっぱり気になる。唇とその周りのみならず目の下くらいまでの広範囲で痺れていたり感覚のないところがある。今日こそは鼻の下のテープが外れますように。

朝食後、口内洗浄をしていると昨日も来た例の香水臭いスタッフともう一人がやって来た。
「どうですか、調子は」
「かなり元気です。昨日まで少しだるかったんですけど今はこんな感じでピンピンしてます」
「あの手術してこんなに元気のいい患者さんを初めて見ました。手術から3日でしたっけ?3日目じゃまだしんどくてベッドに寝たきりな人も多いのに」
「早く退院したいので、頑張ってます」
特に頑張ってることなどないのだけれどね。
「そうですか。痺れなんかはありますか?」
「ここら辺がピリピリしてます。なんていうか、ピリピリというか、この周りの皮膚の下で炭酸がバチバチはじけてるような」
私は顎部分を指しながらそう答えた。
「炭酸!?そういう喩えをした患者さんも初めてなので、ちょっと分からないですけど」と軽く笑われた。
「今日って外来に呼ばれますかね?」
「ちょっと分からないです。あとで渡部先生が来ると思うのでその時に訊いて下さい」
ちょっと分からない、を繰り返され私は苦笑いをした。この人たちが回診にやってくる意味って!?って。まぁいいや、これもいつか思い出(?)になるだろう。

ベッドで本を読んでいると看護師さんがやって来た。
「今日は浴槽のある広い浴室でのシャワー空いてます。昼食後になりますけれどどうですか?」
あ、外来に今日は呼ばれるのかな?呼ばれたとしてもきっと先生が入院患者以外の外来もしくは手術が終わった夕刻以降だろうから大丈夫か。
「それで大丈夫です」
「じゃぁ、14時からで入れておきますね」

本の続きを読んでいると渡部先生が来てくれた。うん、先生はちょっとした癒しの存在だ。主治医&執刀医なので安心出来る。文字通り私の骨の髄まで知っているからね。
「おはようございます。調子はいかがですか?」
「お陰様でかなり元気です」
「それは良かったです」
「あ、このテープって外してもいいですか?」
「そうですね、もういいでしょう」
「今、外しちゃってもいいですか?」
「今度シャワーの時に、お湯を掛けながらゆっくり剝がして下さい。そうじゃないと痛いでしょうから」
午後にはこの血まみれのテープがやっと剝がせる、嬉しい!
「今日って外来とかレントゲンとかありますか?」
「明日ですね。今日は何か問題がなければお部屋でゆっくりして頂いたり、元気そうなのでラウンジや売店などに行って過ごしてもいいかも知れません」
「ありがとうございます」

ああ、しかし本当に暇だ。売店でアイスや飲み物を買ったり、外来前にある図書コーナーを覗いてはラウンジで日向ぼっこしながら借りた本を読むだけなんだから。

病院のあるこの街には私が数年前によく通った手芸店があるし、活気ある商店街をはじめ、都会ならではの商業施設が沢山ある。
ああ、なんで私は編み物の道具を持参しなかったのか!バカだ。売店で毛糸や編み針が売っていればいいのになぁ。
まぁ、そんな不満を持ったところで仕方がない。あと何日で退院出来るか分からないけど、そうやって過ごすしかないんだから。

今日の昼食は重湯とかぼちゃのスープとりんごジュースとヨーグルトドリンク。私は甘い野菜が苦手で、スープだとしてもそれは同じだ。かぼちゃやさつまいものスープが出るとがっかりする。今は重湯が一番のごちそうだ。葛湯は甘い野菜のスープより嫌で、いつも完食出来ない。

シャワーの時間になって、広い浴室に行ってはみたけれど20分では浴槽にお湯を張って入浴する時間などない。血まみれのテープを剝がす許可が出ただけでもありがたく思わないと。それにここには風呂椅子もあるし、座って身体を洗えるのが少しだけ貧血のせいかふらつく身としては上等だ。顔にシャワーを当て、ゆっくりとテープを剥がして鏡で顔を眺めたーーアザラシのように顎のない顔。鼻から上は元の顔なのに、このまま戻らなかったら嫌だ、嫌すぎる。早く普通の顔に戻りますように。

暇、暇、暇。見舞い客もいないし、っていうか入院するってことを話す友達すらいないんだった。小難しい言語学の本や洋書の旅行ガイドブックを持って来てて良かったよ。ほかに誘惑がないからじっくり読めるからね!と強がるけれど正直いうと少し寂しい。あ、けど友達がいたとしてもこの顔は見せられないよなぁ。

半分ふて寝して布団を被っていると色んな音や声が耳に入ってくる。普段はテレビなんて見ないけれど、テレビカードを買って見てみようかなぁ。けれどすぐに飽きるに違いない。私は少し忙しい方が性に合っている。ベッドの上で長時間過ごすなんてキツい。

そうこうしてるうちに窓の外が暗くなっていた。もうすぐ夕食の時間か……もう葛湯は勘弁だと思っていると渡部先生が来た。
「南さん、調子はいかがですか?」
「元気過ぎて、暇を持て余してます」
「もし調子が良ければ明日明後日、外出許可を出すので外に出てみたらということをお伝えするために今、来たんですよ。どうです?もし明日、外に出れそうならナースステーションで一筆書いて頂いてから、この辺りを散歩したり商店街まで行ってご帰宅後に必要になるもの、たとえばドラッグストアで液体歯磨きですとか、こんなものがあるんだ~と見て回ったりしてみてはどうでしょう」
え!外に出れる!?願ってもないことだった。ドラッグストアも見つつ贔屓の手芸店にも行っちゃおうかな?
「はい、ありがとうございます。外出前にナースステーションで申請すればいいんですね?」
「そうです。まぁ、無理はせずに、です。転んでしまったりしたらまずいですからね」

夕食を取った後、消灯時間までラウンジで過ごした。テレビのニュースによると明日は今シーズン一番の寒さで午後から翌日にかけて雪が降るかもとの予報。雪か……雪が降ったら外出するのは危険だなぁ。雪景色は嫌いじゃないしむしろ好きだけれども、どうか降らないでほしい。私は明日、外出したい。外に出たい。