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5年前 <8>

味気ない食事の後の歯磨き、否、口内洗浄はちょっとした苦痛だった。洗面所に置かれたジェットウォッシャーに水とイソジンを入れ、長細い器具を口のわずかな隙間に差し込んでスイッチを押すとガーガーとうるさい音がして勢いよく水が出る。口が物理的に開けられないし、唇やその周辺が麻痺しているからどうしてもこぼれてしまうし、切って縫った部分(上の歯茎の端から端まで真一文字、下の歯茎の大部分)に当たるとものすごく痛い。口をゆすぐと血が沢山出てきた。ちゃんと清潔になっているのかもよく分からなくて気持ちが悪い。

明日は無事にバンテージが外れるだろうか?こいつのせいで頭が締め付けられるように痛い。合わないヘルメットを被っているときのように。常に鼻からたらたらと血が流れてきて鼻の下につけているガーゼはいつも汚れている。何度も交換するけれど血の匂いで気分が悪いし、人中に貼られたテープは剥がれかかっているけど血だらけでガビガビしてるし臭い。

鼻の中は血の塊やら分泌液が固まったものでふさがっているから口で呼吸しなくてはならない。塊を取ってしまいたかったけど、実は鼻も縫ってある。顎変形症の手術では皮膚を切り、肉を切り、骨を切って動かすので術後に鼻が変形してしまう可能性が高い。変形のリスクを最小限にするために鼻の中を糸で縛っている。だから下手なことをやらかすと糸が取れてしまい、ただでさえ低い鼻が潰れるかも知れないのだった。

あと心配だったのは顔の弛み。不要な骨を切って取り除いたということはその上に乗っかっている肉や皮膚などの軟組織が余ってしまうことを意味する。若い人ならそのリスクは低いようなのだが私は中年。いまいましいこのバンテージを外して顔がどうなってるのか早く見たい。見たところでパンパンに腫れているし、弛みが残ってしまうかは完全に顔の腫れが落ち着く半年以降じゃないと分からないんだけども。

麻痺に弛み、鼻の変形などの後遺症…….出来れば残ってほしくないけど、ちゃんと正しいかみ合わせや歯並びになることも重要だ。というかそれが手術の目的だしね。

Oh Bondage! 何故かX-Ray Spexのあの曲が頭の中で流れっぱなし。とりあえずこの拘束具、じゃなかった、バンテージを外してくれ~!ちゃんと圧迫しないと意味がないから仕方ないんだけど本当に鬱陶しい。しかしまぁ、こんな不満がポンポンと出てくるくらいに身体は元気だ。筆談用にホワイトボードも用意してきたけど必要なく、何とか喋ることが出来ている。

散々覚悟していたのに、血が喉を伝って気持ち悪いとか詰まって苦しくなるということも全くない。血混じりの痰はしょっちゅう出るけれどティッシュにペッと出すだけで済んでいるから、チューブを気管に差し込んで機械で吸いとることもしなくて大丈夫だ。ちょっと拍子抜け?けれど当然、苦痛なんて少ない方がいいに決まってる。

あ、鼻の下につけてるガーゼが無くなった。看護師さんが病室に来たタイミングで新しいのを下さいとお願いしたら
「え、もう無くなったんですか!?」と何故か少々お怒り気味。持ってきてくれたけどね。あ、もしかして矯正歯科で話を聞かせてくれた女子高生が言ってた意地悪な看護師ってこの人かっ?って苦笑い。

猫は元気にしてるだろうか。甘えん坊のあの子、ママがいないって鳴いてないだろうか。早く会いたいなぁ。

そんなことを考えているともう消灯目前。夜の部の看護師さんがやってきた。とっても優しい人で、色々と気を遣ってくれた。ハキハキしててニコニコしてて、ちょっとでも困ったことがあったらすぐにナースコールしてね、って。大変な仕事だろうに、頭が下がる。
「このタオル、可愛いですね!」
今回のために買った、赤い花柄のポルトガル製の厚手で大判のタオルを掛布団の上にかけていた。
「お気に入りなんですよ。これがあるとなんだか安心で」
「寒いですか?寒いなら毛布もう一枚持ってきましょうか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

灯りの消えた部屋で抗生物質と痛み止めの点滴がポタポタと落ちていくのを見つめているうちにいつの間にか眠りに落ちたようだ。夜中に尿意を催したのでトイレに立ち、戻ってくると部屋の奥にある大きな窓から新宿の街が冬の夜空の下で輝いていた。
ーー朝まで眠れそうな気がした。