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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<168>

サウダーデ

「セニョーラ……起きてる?」
「起きてるよ」
いつの間にか手が繋がれていて、私は少しだけ眠っていたようだ。
あ……顔、頬に口紅が付いている。そっと指で拭う。
「どうしたの?なにか付いてるかい」
「ううん」

♪君が僕にキスすると、僕の顔には君の口紅が付いてるかい?
君が僕を恋しく思うとき、夢に出てくる恋人は僕の顔をしているかい?

私が10代の頃から大好きなバンドの大好きな曲。切ない。ジョゼさんはきっとパンクなんて聴かないんだろうな。私、このひとが好きなものなんて全然知らない。好きな国はイタリア、好きなお酒はブランデー。そのくらいしか知らない。あなたはどんな音楽を聴くの?どんな料理が好き?そんな話もしてみたかったけれどもうお別れ。Time's Up。

「起きてるなら、話でもしようか?それとも横になってたい?」
「このまま横になって、お話ししようか?」
「そうしよう。君は沢山旅行をしたんだろう?好きな国はどこ?」
「ポルトガル」
「それは、僕と会えたから?」
「そうね。それだけじゃないけど」
思わず意地悪を言う。
「Oh、外にもなにか理由があるのかい」
「私、住みたいくらいこの国が気に入ってしまったの。なんかねぇ、『サウダーデ』ってやつかな。日本に帰ってすぐに『ポルトガルに帰りたい!』って思うと思う」
「じゃぁ、また来ればいいさ」
「うん、またすぐに。次会えたらポルトガル語で話したいな。勉強しなきゃ」
「ポルトガル語、難しいよ。大丈夫?」
「……頑張る」
「そりゃ楽しみだ!」
「うん……」

手はまだ繋がれたまま。時折ぎゅっと握るから私も握り返す。私はいつかまたこの手を取って、お酒を一緒に飲めるのだろうか。
「日本のお酒、飲んだことある?」
「多分、無いと思う。美味しいかい?」
「ポルトガルのワインの方が好きだけどね」
「ああ、ポルトガルのワインは世界一だ。フランスやスペインのワインよりずっと美味しい」
「私、フランスにもスペインにもまだ行ったことないの」
「そうなの?君は一体これまでどこに行ったんだ」
アメリカ、イギリス、ドイツ、チェコ……ブルガリア、ロシア……指を折って数える。
「僕、アメリカにも東欧にも行ったことがないんだよ」
「オーストリアに行ったことはある?ポルトガルに来る前に一番好きだったのはオーストリア。ウィーン、Viennaしか行ったことないけどね。しかもたったの2日だけ」
「Oh、ヴィエンナ!僕も大好きな街だ」
新聞を片手にケルントナー通りを颯爽と歩くこのひとの姿が目に浮かぶ。

「セニョーラ……」
「なぁに?」
「僕のこと、忘れない?」
ああ、何度……何人に、この色男はこんなセリフを言ったのだろう。
「……忘れっこないって、言ってるじゃない」
「ごめんよ……君には僕に弄ばれたと言われても仕方ないけど、僕は……」
「もう、お喋りは止めましょ」

彼の頬にはもう、口紅は付かない。乱れた黒髪、コロンと煙草の香り……どうしてこのひとを忘れることが出来ようか?成田を発ったときにはまさかポルトガルでこんなことになるだなんて夢にも思っていなかった。やっぱりここ数日の私はおかしい。どうかしている。私はやはりなんとも不思議なポルトガルのマジックにかかってしまったのだろうか。それともツアーメンバーが焚き付けたから流されてしまったのかーーいや、違う。私は自ら望んだのだ。だって、拒否することだって出来たのだから。そう、行いも運命も自分が決めるのじゃなきゃ生きていても仕方がない。私は人生を語れるほど老いてはいないけれど自分がしたいことを自分で決められないほど若くはない。このひとも言っているじゃないか、人生を楽しめ、って。

朝がやって来た。
「セニョーラ、僕のセニョーラ……僕はもう少し休んでから起きるよ。もうすぐ朝食の時間だろ?」
手はまだ繋がれたまま。
「うん……」
「セニョーラ、またね」
「またね。あ、あなたはまだ寝ていてね」
「うん、ありがとう。オブリガトウ」
昨日の朝と同じように私は着衣を整え靴を履いてドアを開けた。

「またね」
次にこのひとからこの言葉が出るなら今日の午後、リスボンの空港でだろう。そしてもう二度と会うことはないーー私はなんと答えればいいのだろう?慌てないように、今から言葉を用意しておこうか。「じゃぁまたね、元気でね、さようなら」…….?

部屋に戻る。ああ、本当になんだろうか、この切なさは。ベッドにうつぶせになって少しだけ泣いた。けれどこうしちゃいられない。急いでシャワーを浴びて化粧を落としてまた化粧をして着替えて朝食を取らなきゃ。

隣の部屋は静かだ。きっとまだあのひとは眠っている、夢を見ているんだ。スーツケースをドアの前に出して朝食ルームに向かう。

「おはよう」
「おはようございます」
いつもと同じような、そうでないような朝。昨晩と同じように好きなものだけをお皿に盛ったけれどなにを食べているのかよく分からない。

部屋の前に置いたスーツケースはなくなっていた。ベルボーイが集めて運んで、今頃はバスのトランクに載せられているのだろう。

……ああ、たまらなく切ない。ポルトのホテルの部屋を出るとき
「もう、一生この部屋に戻ることはないだろう」と泣きそうになったけれど私は今、本当に泣いている。

ロビーに向かう廊下で大瀬さんに声を掛けられた。
「さっきね、朝食から帰った後に廊下で彼とすれ違ったのよ。彼、なんだか寂しそうな顔をして歩いてたんだけど『ボン・ディア』って挨拶したら顔を上げてニコッとして『ボン・ディア』って返してくれたの。なんだか私まで切なくなっちゃってね…….甘酸っぱいというか、ね」

ああ、本当に、今日であのひととお別れなんだ。だけど私はあなたを忘れない。あなたを忘れっこしやしない。