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5年前 <9>

咳やくしゃみ、鼻をかんだり啜ったりを出来るだけしないようにと言われてもなかなか辛いものがある。鼻はともかく、咳やくしゃみを我慢することなんて出来るのだろうか。

今、私の歯槽骨には上下4本ずつ計8本の小さいボルトのようなものが埋め込んであり、そこにゴムを引っかけて口が開かないようにしてある。わずかに開く口をイーの形にして覗くとまるで上下の歯であやとりをやっているみたいに複雑だった。

手術2日後の朝。木曜日。え、まだ2日しか経ってないのか。昨日の今頃はまだ麻酔で眠っていたんだっけ、なんだか信じられない。

いいなぁ、同室の人たちはみんな美味しそうなものを食べている。私は葛湯とサツマイモのスープにヨーグルトドリンクとやたら甘い高カロリーのドリンクだけ。しかし毎回漏斗で食事を容器に移し替えるのも使った後洗うのも面倒くさい。やっていいのか分からなかったが、直接お椀を口元に持って行ってゆっくり流し込んでみた。うん、この方が食事をしている気がする。ちゃんと食べているという気がする。けれどやっぱり唇やその周りは痺れているし、ダラダラとこぼしてしまう。そうだよなぁ、まだ手術直後だもんなぁ。

口内の洗浄を済ませ、ベッドでボーっとしていると待ちに待った執刀医、渡部先生がやって来た。
「どうですか、具合の方は」
ちょっとオタクっぽいクラスの優等生の男子みたいないつもの調子の先生。顔を合わせるのは月曜、手術当日の朝以来だ。
「思っていたより随分楽です。有難うございました」
「大手術でしたからね、ゆっくり休んでください。今日は午後にレントゲン撮っていただいて、その後外来に来てもらうだけなので。売店まで歩くの辛くないようでしたら行ってみて食べれそうなものあったらどんどん召し上がって構いませんからね。とにかく栄養つけるのが回復への近道ですから」
そういえば手術中のことを全く聞いていないことに気づく。なので色々訊いた。
手術は8時間半(長っ!)かかって、骨はなんと最大で11ミリ移動(体験者のブログや掲示板では10ミリ以上動かした人は「勇者」と呼ばれていた)、そして出血量が多かったので採っておいた自己血を輸血したと。自己血貯血は体重が50kg以上ある人は400ミリ、それ以下の人は200ミリという話はすでに書いたけれど、ギリギリ50kg以上あって良かった!と思ってしまった。そうでないと自己血だけじゃ足りなくて他人の血液も輸血することになってしまったからだ。あ~、私はそんな大手術を受けたんだなぁ、と改めて思った。
「お口の中見せてもらいますね。うん、問題なさそうですね。ゴムだけ換えます」
こんなに口が開かないのに上手いこと交換出来るもんなんだなぁと感心した。
「あ、このバンテージって外してもらえますか?」
「うん、大丈夫そうですね」
先生は慎重に顎から頭のてっぺんまで覆っている分厚いバンテージと頭に被っているネットを外し、顔を固定しているテープが髪の毛に思いきりベタっと付いているのでハサミを取り出し、慣れた手つきでシャーっと髪の毛とテープを切った。ああ、髪の毛結構切られてしまったよ。ショートボブでよかった。ロングだったらちょっと悲しいもんね、切った部分が目立つだろうから。
鼻の下に貼ってある血まみれになって臭いテープは
「これは明日以降様子を見て外しましょうか。今は固定がとにかく大事なんで」と言われてしまった。まぁ、仕方ないね。
「熱をもってしんどくても出来るだけ冷やさない方がいいので、ちょっと我慢して下さい。それでは午後にまたお会いしましょう」
「あ、食事なんですけど、直接お椀から啜っても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
良かった。

先生が帰った後、まだ一部だけ包帯の巻かれた顔を鏡で見た。
あ~、バンテージをしていたから分からなかったけど、下膨れどころか顎がない。アザラシみたいに顎と首の境目が無くなっている。これ、元に戻るのかなぁ?不安だ。

血の混じる痰が沢山出っぱなしだから、用意してきたティッシュがもう無くなりそうだ。ちょっとふらつくけれど売店に行くしかない。ああ、誰か買ってきてくれる人がいたらいいのになぁ。けど普通に元気(?)だし自分で行くよ!

病院の売店といっても、某コンビニの上位な店、といったらいいのか?まぁ、名前を出しても問題ないから書くけれど、ナチュラルローソンなので品ぞろえがすごい。私が大好きな輸入のお菓子や飲み物なんかも沢山あるし(輸入者:成城石井なんてものも)、美味しそうなお惣菜やパンもある。
あ~!イタリアのチョコレートアソートが食べたいよ!けれど流動食しか食べられない私。残酷だ。しょうがないから鉄分たっぷりのプルーン味のヨーグルトドリンクと、メイバランスという美味しくて色々な味がある高栄養のドリンクと昨日も買ったベン&ジェリーズのアイスとスペインのミネラルウォーター、青くてカッコいい形のボトルのソラン・デ・カブレスをかごに入れた。ちょっとお高いけれど今は自分を最大限に甘やかすのだ。あ、ティッシュも忘れずに買わないと。

部屋に戻ってティッシュにマジックで自分の名前を書いた後、ヨーグルトドリンクを飲もうとしたら、ストローで吸うことが出来ない。口周りの筋肉が落ちてるのだろう。参った。持参したコップに移し替えて飲んだ。
アイスクリームもやっぱりまだ、スプーンで食べることが出来ない。昨日したように溶けてから容器に口をつけて流し込んだ。食べた後は例のジェットウォッシャーで口内を洗浄しないといけないのがちょっと嫌だ。

向かいの患者さんはストーマをつける手術に同意したようだった。うん、分かるよ、抵抗があるの。私はがんの病巣が取り切れなかったら臓器を丸ごと摘出しなければいけなかったし、そうなったら場合によってはストーマをつけることになったかもしれないから。病院にはドラマがある。ドラマなんて言い方をしていいのか分からないけど、ここには人生がある。人それぞれの。