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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<184>

男と女

マデイラが段々と小さく、そして遠くなっていく。往きは折り紙をしてツアーメンバーや乗客と楽しい時間を過ごしたけれどみんな疲れているのかやけに静かだ。時折どこの誰だか知らない人たちの話し声が聞こえてくるだけ。

リスボンまでわずか1時間半くらいのフライトなのにまた軽食以上の機内食が運ばれてくる。昼にピザを一切れ食べただけだからありがたい。しかし平らげてしまうとお腹いっぱいでディナーを楽しめないかも。ケチ臭いけれどクラッカーとパンは持ち帰って小腹が空いたら食べることにしよう。

退屈なので機内誌を読む。ポルトガルの名所やおすすめのレストランが載っている。これまでに行った場所、まだ行ったことのない場所。またすぐにあちこち廻りたい。この国には素晴らしいものが沢山あるから。こんな気持ち、初めてだ。これまで10数か国旅をしたけれど再訪した街は一つもない。ロンドンもウィーンもモスクワも気に入った。いずれまた行きたいとも思う。だけどまだ行ったことのない国へどんどん行きたいという思いの方がずっと強かった。ポルトガルにぞっこんになる前までは。

機内誌をざっと読み終えてしまったので免税品のカタログを手に取る。いやはや、すごいな、これは。なにがすごいって、まず表紙からしてすごい。男女のカップルが刺激的なポーズを取っているが男性の顔は写っていない。ページをめくるとまたもやこの2人の絡みが次々と現れる。刺激的とはいってもあくまでスタイリッシュでポルノみたいないやらしさは微塵もなくモード雑誌のグラビアのようだ。だけれど半裸の男性に女性が馬乗りになって髪の毛を掴み挑発的な表情をしているわ、鎖、金具だけで作られた服を纏った女性の腰を男性が支えているわ……。いや、すごいとしかいいようがない。だってこれ、フラッグ・キャリアのカタログだから。日本でいえばJALのようなね。
この鎖、否、服はポルトガルで一番有名なデザイナー、アナ・サラザールのものだとクレジットがある。リスボンの中心部、高級ホテルや伝統的なレストランが並ぶエリアにブティックがあるってガイドブックに書いてあったっけ。果たしていくら万円、何ユーロするのか分からないけれどちょっと覗いてみたい気がする。お金はほとんど遣ってないから服やブーツには手が届かなくても小物くらいは買えるかも知れない。あ、だけどリスボンで自由行動の時間なんてあったかな。

カタログには時計だの、煙草だの、化粧品だの載っているけれど国内の移動なので免税価格で買えるわけでもなし、そもそもあまりそそられる商品がない。香水ならすでに「マデイラの夜」があるし。しかしこのカタログは非常に魅力的だ。これ、持ち帰ってもいいのだろうか。機内誌はご自由にと書かれているけれど。本当はダメなのかも知れないがバッグに忍ばせてしまおう。この旅ではいけないことばかりしている私。

あと少しで到着するとポルトガル語に続いて英語でアナウンスが流れる。現在のリスボンは晴れ、気温は……聞き取れなかった。しかし、機内ってのは本当に乾燥しているんだなぁ。鏡を見ると肌が荒れているしシワも出来ている。さっき、保湿クリームを塗ったばかりなのに。ああ、今晩のファド…….なにを着て行こう?やっぱり蘭の刺繍のドレス?格式ばった音楽じゃないからカジュアルでもいいけれど、迷うなぁ。カタログのあの鎖の服は果たしてフォーマルなのかカジュアルなのか?そんなことを考えていると無事に着陸。3日ぶりに本土に戻って来た。リスボンの夜もマデイラの夜と同じくらい楽しめますように!

タラップを降り、スーツケースを受け取って出口に向かう我々一行。門田さんの後頭部にはまだ2枚の紙吹雪がくっ付いている。いい加減、誰かが指摘しないものかねぇ。ダメ、ダメ。また笑いそうになる。

外に出ると太陽は沈んで夜が始まっていた。ああ、この風、空気、なんだか懐かしいな。椰子の木も出発したときと同じように揺れている。

「あ!」
「あら!?ジョゼさんじゃないの!!」
え、……嘘でしょ…………?

一瞬、我が目を疑った。だけど、間違いない。あの青い大きなバスの横にいる人は紺色の三つ揃えではなくグレーっぽいスーツを着ているけれど、間違いないーーああ、なんてことなの。私はもうあなたとはお別れしたのに。どうしてここにいるの?バス会社の都合とやらで再び担当することは決まっていたのかも知れないけれど。

これはきっと悪い冗談だ、けれど冗談が過ぎる。私の心はまた、かき乱される。いつかまた会えたらいいなと思ってはいたけれど、なにもこんな早くじゃなくてよかったのに。また会おうね、と旅先で誰かと約束したとしても本当にまた会えることなどおそらくあるわけはないと分かっているからこそ、一緒に過ごす時間や空間や交わした言葉を大切にして、やがてその思い出は美しいものに変わる…….そう思っていたのに。それにもう、あとたったの二晩しか残っていない。明後日の早朝にはリスボンとも、ポルトガルともお別れ。私は遠く遠く離れた日本に帰る。ああ、会いたかったけれど会いたくはなかった。今夜、ファドを聴かせるレストランに行って、それから……?部屋に戻ってまた煙草を吸っていると電話が鳴って
「ボア・ノイテ、セニョーラ。僕だよ」って声が聞こえてくるかもって?もう、知らない、分からない。

「またジョゼさんが来てくれましたね!」
土田さんがそう言うと盛大な拍手が巻き起こった。
スーツケースをトランクに入れていくジョゼさん。ツアーメンバーは次々にバスに乗り込んで行く。

私は最後。ジョゼさんは無言でウインクをした。
「ねぇ、セニョーラ、僕の言った通りだったろう?」と言わんばかりに。

ああ、このひとは本当に悪い男だ。