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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<214>

What do I get?

バーになんて本当は行きたくない。行きたくないわけでもないけれどじっと部屋にいるのが耐えられないだけ。夕食を取っている間に連絡があったならば電話に「伝言あり」のランプが付いているはず。もういいや、バーに行こう。

ほらね、こんなときに限ってエレベーターがなかなか来ない。もう、待つのは疲れ果てた。だけどこれ以上余計な重たいことは考えたくないからこんなつまらない些細なことで気をもんで頭の中がいっぱいになるのがいいのかも知れない。誰だか忘れたけれど昭和の文豪も言っていたじゃないか。蟹とか海老とかにビビっていれば、大きな恐怖にかまけている余裕すらなくなるって。なんかちょっと違ったかも知れないけれど、そんなことを書いていたはず。うん、確かに甲殻類の姿形はちょっとグロテスクで怖い。蟹、海老、蟹、海老……。そういえば「ロックロブスター」って曲があったっけ。そう、B-52'sだよ。ロブスターって伊勢海老のこと?伊勢海老なんて食べたことないや。美味しいのかなぁ。ああ、海老や蟹が、と言っていた文豪が誰だか思い出せないのにB-52'sの曲が頭に流れているのはどうしてか。

やっと来たエレベーター。なぜか誰も乗っていない。あっという間にロビーに着いてしまった。あ、三島由紀夫か、蟹だの海老だの言ってたのって。多分そうだ。
伝言を預かっていない、連絡が来ていないのは明白だからフロントには寄らずに煙草の販売機に向かう。自動販売機ってやつは無言だからいい。余計なお喋りなどせずに、硬貨を入れれば黙って品物が出て来るから。誰かと話したくないときにはうってつけだ。しかし、ああ、財布を開いたら小銭が足りないじゃないかーーああ、なんてことだ……。いつかベルリンで高熱を出したときもそうだった。飲み物を買いたかったのに小銭がなくって、フロントで両替してもらおうかと思ったけれどあまりにもしんどすぎて動けず洗面所の蛇口を開いてグラスに注いだお湯を飲んだんだ。ああ、煙草なしではこんな夜を過ごせるわけがないからフロントで買うしかない。

バーに行く前に煙草を買おうか、それともバーで飲んでから?ああ、酔いつぶれたくはない。酒と煙草、どっちがより大事だろうか。どっちも、両方必要だ。仕方がない。フロントに行こう。あ、バーでも売ってるかも知れないな。おっと…..そういえばバーはどこにあるんだ?大抵、ホテルのバーってのはロビー階にあるのだけれどそれらしきものがないような……ああ、結局フロントに行く羽目になるのか。バーはどこにあるかって訊かなきゃ……今日の私は本当にダメだ。色々とツイてないわ、頭がおかしくなっているわ。

そしてこれまたこんなときに限って急に尿意が……コーヒーを飲み過ぎたから不思議なことでもなんでもないんだけれど。バーだけでなくトイレも探さなきゃいけなくなった。だけどまずは当然、トイレが先だ。トイレは奥にあるはず、きっと。これまで泊まったホテルではどこもそうだったから。早くしないと漏らしてしまうかも……ああ、情けないなぁ。みっともない。それにしてもこんな格好、濃い化粧にハイヒール、決して下品ではないけれどスリットの入った蘭の刺繍のドレスでウロウロ、落ち着きなく歩いていて周りの人たちからどう見られていることやら。客を待っている商売女だと思われているかもねぇ。ロシアのホテルのロビーには大勢の煌びやかな女性がずらっと並んでいたっけ。夜に寝ていると電話が鳴って、応答するとガチャっと切られた。手当たり次第に客室に電話を掛けては男性が出たら誘いを掛けて交渉をするのだろう。
ああ、フロントには誰かから連絡が来たら知らせてくれと頼んだけれど「誰か」ってのは客じゃないかと勘違いされていたら嫌だなぁ。嫌すぎる。ジョゼさんは私を買ってなんかいないし私は売りものなんかじゃない……今はね。ああ、トイレはどこだ?

あちこちロビー階を歩き回ってやっとトイレに辿り着いた。ふぅ、間に合った。そうそう……「エッチな男にダメな女」ね。たとえ酔っていたって迷うことはないだろうーー’D’と書いてある方に入る。

無事に用を足して手を洗って、鏡を見ると化粧が少し落ちて髪も乱れている。いけない、これじゃいけない。髪は水と手櫛で整えて、せめて口紅だけでも塗り直そう。
ああ、ベージャのポサーダで失くした赤い口紅……失くしたこと自体はさほど気にしちゃいないけれど、あまりにも象徴的で……私の部屋に、それともあのひとの部屋に残してしまったのか。あの夜を知っているあの口紅を失くしてしまったのがたまらなく切ない。このドレスもこの靴もあの夜を知っているのに、それになによりこの私自身が知っているのにどうしてあの口紅を思うとそんなに切なくなるのだろうーーああ、そうか……失くしてしまって今はどこにあるのか分からないからだ。もう二度と出会うことがないであろう人たちに対するあの感情と全く同じ………..

この旅で得たものは数えきれないほどあるけれど、失くしてしまったものもあるんだなぁ……その象徴があの口紅。初めて感じた喜びや愉しさ、悲しみや切なさを知っている赤い口紅ーー本当にもう、こんな旅、二度とあるまい。

さあ、どうする?このまま鏡を眺めながら感傷に浸って、夜が終わってしまっていいの?しっかりしろよ、いい女。頬を叩く。誰もいないトイレに響く音ーー痛い。生きているから痛い、そうだろう?もう、傷つきたくはない。だけど……部屋で連絡を待つしかないじゃない。フロントで煙草を買おう。灰皿をもらうのも忘れずに……。

口紅を塗り直し、よし、と活を入れてからトイレを出るとロビーにはまだ沢山の人がいる。リスボンの夜はこれからだと思えてなんとも心強くなってくる。あのひとはきっと連絡をくれるさ。くれるに違いない。背筋を伸ばして堂々と歩く。ああ、だけどやっぱり不安だ。ソファーに腰掛けて煙草を吸う。あ……土田さんがこちらに向かって歩いてくる。目が合ってしまった。なんだか気まずい。軽く頭を下げる。

「南様、探しましたよ。あのですね……」