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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<204>

リスボン、日暮れ前

ここ、アルファマ地区は犠牲者5万と6万ともいわれている1755年のリスボン大地震の被災を免れたのでイスラーム時代の街並みがそのまま遺っているのだという。イスラームの国にはまだ訪れたことはないけれど、こんな感じなのだろうか。

「こちらはリスボンで一番小さい家と言われているお宅です。おばあさんが猫ちゃんとお住まいで、こんなお天気の良い日はこの階段に座って編み物をしているお姿をよく見かけることがあるのですが、今日は残念ながらいらっしゃらないようです」

この年季の入った緑色のドアのお家、何畳あるのだろう。外からはどうなっているのか部屋の中が全く想像出来ないけれどこの街で一番小さいというからにはベッドくらいしか置けないほど狭いのだろうか。お風呂場は……?気になる。猫ちゃんはどんな子だろう。黒猫かな、トラ猫ちゃんかな。おばあさんが編み物をしている傍らで丸くなって寝ている姿を想像すると思わず顔がほころんでしまう。

街、町を歩きながら見つけたあれやこれの写真を沢山撮った。看板、店先、扉、ゴミ箱、路地に置かれた酒瓶のコンテナ……観光名所や風景よりそういうものを好んで収めた。猫が大好きな私は猫を見つけると
「よしよし、可愛いね~」と日本語で声を掛けながらそっと近づいてシャッターを切った。
あれはどこの町だったか、朝のまだ少しだけ暗い時間の散歩中に白い猫がいたので嬉しくなって近寄った。よしよし、いい子だね……ン?ありゃ、これ、ゴミ袋じゃん……ハハハ。周りに誰もいなくて良かった。

フィルムは1本だけ残っている。使い切ることのないまま明日、帰国の日を迎えるのだろう。

ところどころ欠けたアズレージョがびっしりと貼られている共同洗濯所では年配の女性たちが楽しそうにお喋りをしながら洗濯をしている。ルーマニアにも共同洗濯所があったけれど、あれは未だに馬車が主な移動手段という奥地だった。森に囲まれて木造の教会がある村。リスボン以外にヨーロッパの国の首都で共同洗濯所ってあるのかしら。猫と暮らしているというおばあさんもここに洗濯をしに来るのかな。

ああ、いいなぁ。こういう場所。毎日来る人が姿を見せなかったら病気でもしたのかと心配して家を訪ねたりするのだろう。こんな、近所の人が憩う「社交場」はずっと無くならないでほしい。日本の銭湯とかもさ。

路地のあちこちからいい匂いがしてくる。ポルトガル人の夕食は遅いというが、レストランでは客を迎える準備をし、家では仕込みをしているのだろう。なんだか少し切なくなる。

学校帰りの夕暮れ時に家に向かって歩いていると包丁のトントンという音が聞こえて、カレーの匂いがして……。ああ、みんな家族を待っているんだな、ごちそうさまという一言が聞きたくてお母さんたちは毎日一生懸命ご飯を作っているのだと思うと泣きそうになった。私は家になんて帰りたくなかったから。家出をしたかったけれど行くところなんてなかったし非行にも走れず、中途半端に歪んだ人間になってしまった。

私の人生って一体なんなんだろう。海外旅行に行くという夢は叶った、叶えたけれどこんな風に楽しんでいるときでもふと悲しくなることがある。こうした感情はきっと一生付きまとうのだろうな。

「みなさま、これにて本日の、そして当ツアーの観光は全て終了いたしました。今日一日ロカ岬、シントラ、リスボンを案内して下さったユミコさんとはこちらでお別れとなります。ありがとうございました!」
ああ、昔を思い出して感傷に浸ったり将来を嘆いている場合ではない。素晴らしすぎたこの旅、もう本当に終わってしまったんだなぁ……出会った人、見たもの、聴いたもの、感じたこと、ハプニングの全てを忘れたくない。

今夜、私は無事にジョゼさんに会えるのだろうか。私はホテルに、ジョゼさんは会社に戻って……それからの話をまだしていない。どうするの?時計を見ると4時半、まだまだ早い。夕食まで3時間もある。それまでツアーメンバーの誰かを誘って観光でもするか、一人で散歩でもしたいけれど……そうだ、赤いブーツを探しに行こうか。

バスに乗り込んでアルファマを後にする。
「大変お疲れさまでした。これからホテルへと向かいますが、ご希望の方は途中、ロシオ広場で下車していただくことも可能でございます。中心部からホテルへはちょっと距離がございますのでタクシーでお戻りいただくか、メトロに乗ってみたいわという方は挑戦してみてくださいませ。ですがホテルは最寄りのメトロの駅から少し歩きますのでご心配な方はやはりタクシーをお使いになる方がよろしいかと思います。ポルトガルのタクシーは安いですし、いわゆる白タクもほぼいませんのでそこはご安心を…..」

どうしよう。もっとリスボンの街を歩きたいし、黄色い路面電車にも乗りたい……ああ、今夜の不確かな約束さえなければ迷うことなくそうするのに!

「ご夕食は今朝お伝えした通り7時半にホテルの地下のレストランでご用意がございますが、どこかで食べて来たいわという方はパスしていただいても構いません。最後の夜ですから、存分にお楽しみいただけたらと思います」

まだ明るいリスボンの街。このままホテルに戻るにはあまりにも惜しい。私はジョゼさんからの連絡を部屋で待つべきなのだろうか。ああ、昨晩、ホテルに着いた頃には真っ暗だったからカードキーのスリーブを千切ってこっそり手渡しても誰にも気づかれずに済んだけれど、今日はちょっとまずい。メモを渡すことも、今晩はどうするのと訊くことも到底出来ないーーツアーメンバーはともかく土田さんの目が気になるから。仕方がない。街歩きは諦めよう。「待ってて」と言われたことだし、その通りにしよう。

あっという間にロシオ広場に着いてしまった。バスが停まりツアーメンバーの半分以上が席を立つ。
「みなさま、お気を付けて。では今晩、もしくは明日の朝にまたお会いしましょう」
ああ、やっぱり土田さんもホテルに戻るのね……。
賑やかな夕暮れ間近の街に消えていくツアーメンバーたち。私も降りて一緒に観光を楽しみたい。けれどこれでいいんだ。私が自分で決めたことだから後悔しないようにしなきゃ。そう。楽しいことを考えよう。部屋に着いたらまず急ぎ目にシャワーを浴びて、髪を洗って化粧も落として……シャワーから出たら一服しながら化粧をして電話を待つ。髪もしっかり乾かさないとね。あ、私の部屋じゃなくてどこかでランデヴーということもあり得るか……。ウフフ、楽しい。どこに呼び出されてもいいように明日の出発の準備もさっさと済ませておこう。明日は6時前にホテルを発たなくてはいけないから。ああ、ドキドキと妄想がまた止まらない。