雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<185>
アルファマの娘
ああ、参ったなぁ。こんなはずじゃなかった。不意打ちだ。これは。ジョゼさんが来ると分かっていたならば機内でちゃんと化粧を直せばよかった。こんな疲れて目の周りがシワだらけの顔なんて見られたくなかった。いやいや、そんなことはどうでもいい。良くないけど……。今夜、そして明日、帰国前日の夜を二人で過ごすことなんてあるのかなということばかり考えてしまう。数日前に「また会えたら一緒に飲もうね」って約束したけれど。あ、次会ったらポルトガル語で話したいとも言った記憶がある。この3日間で新しく覚えたのは「マデイラ」が女性名詞だということといくつかの単語だけ。
「皆様、大変お疲れさまでした。リスボンに無事到着いたしました。ドライバーは再び、皆様もよくご存じ、お馴染みのジョゼさんです」
またまた拍手が巻き起こる。
よくご存じ、か……複雑だ。まさか私への当て付けなのかしら。いや、そうではなくただの私の被害妄想だろう。あれこれと余計な考えを巡らせるのは良いことではない。ただでさえ、私の気持ちは千々に乱れているというのに。
「バスは今日、明日とお泊まり頂くマリオット・ホテルに向かっております。ホテル到着後、お部屋で少しご休憩、それからファドレストランへとご案内いたします」
窓の外はすっかり暗くなっていて人通りはそこそこ。商店やレストランの看板の灯りだけが輝いている。ホテルは中心部から離れているらしいけれど朝の散歩を楽しめるような場所でありますように。
「ね、ミホちゃん」
後ろの席から声を掛けられる。身を横に半分乗り出して振り返ると大山さんが
「良かったわねぇ、またジョゼさんが来てくれて。彼、違うスーツなんて着て来ちゃって、お洒落しちゃって、ウフフ…….」
周りの人には聞こえないくらいの声でそう言って微笑んでいる。
なんと答えていいのか分からない。
「そうですねぇ、良かったです」
とりあえずそう返事したけれどポルトガル滞在は残り1日と少し、二晩。どうなることだろう。それは私次第なのか、それとも……?
マリオット・ホテルは想像していたより随分大きい。20階建てくらいかな。宿泊客以外の人が紛れ込んでいても気付かれることはないだろう。広いロビーには沢山の人がいる。聞こえてくる色んな国の言葉。こじんまりとして趣のあるベージャのポサーダとは大違いだし、ましてやブサコパレスとは全然違う。しかし、色んなタイプの宿を用意してくれたE旅行社には感謝、感謝。自分では選ばないような宿やレストランに案内されるのはツアーならではの面白さだ。
私の部屋は233号室か。英国などと同じように2階というのは実質3階のことだ。何基かあるエレベーターには10数人が余裕で乗れる。さすが大きなホテルだけあるな。スーツケースはポーターが部屋に届けてくれるから身軽だ。
233、233、どこだ、私の部屋。あ、あった。ドアに禁煙マークのステッカーが貼ってある。こりゃ、大変だ。さすがに部屋で煙草を吸えないのは困る。大問題だ。忙しい土田さんを呼び出すのは躊躇うが部屋を替えてもらおう。それとも直接フロントで訴えた方がいいかな。しかし、スーツケースを受け取るまで部屋にいなきゃならない。部屋の空きがないと言われたらどうしよう……。どうにもこうにも訊いてみる他はないのだが。出発までゆっくりしていたかったのにこれでは落ち着かない。ツイてないなぁ。ついバカなことを考えてしまう。ジョゼさんの部屋に私が泊まればいいんじゃない?なんてね。
軽くシャワーを浴びて化粧を直していると電話が鳴った。
「ハロー?」
「土田です。お部屋、問題ないですか?」
「部屋自体は問題ないんですけど、この部屋、禁煙なんですよね。替えてもらうことって出来ますでしょうか?」
「そうでしたか。喫煙のお部屋をご用意したはずなのですが申し訳ございません。フロントに訊いてみますが、皆様全員のお部屋の確認が終わった後でもよろしいですか?」
「もちろんです。お手数掛けますがお願いします」
ああ、本当に土田さんには迷惑を掛けっぱなしだ。
ああ、落ち着かない!煙草が吸いたくてたまらない。そうでなくとも誰かさんのせいで落ち着かないのに。けど気持ちを切り替えなきゃ。なにを着て行こうか。ベージャのポサーダで着たドレスにしようかな。しかしスーツケースがまだ届かないから着替えも出来ない。もう集合時間まで20分を切っている。さっきまで着ていた服で行くしかないか……。スラックスにカットソーにジャケット。まぁ、これでもおかしくはないしね。そう、私は気に入らない服なんて着ないし持ってもいない。服や化粧などの装飾は自分が自分でいるためのおまじないのようなものだから、世界のどこにいても好きな格好をしたいし、今夜は特別にめかしこみたい。ファドの調べに相応しく、そして忘れえぬ夜にするために。
ドアをノックする音がした。良かった、間に合った。ポーターに1ユーロ硬貨を渡し、すぐにスーツケースを開いて急いで着替える。ハンドバッグに財布とパスポート、煙草も入れた。忘れ物なし。化粧…..まぁ、これでいいだろう。
集合時間5分前にロビーに着いてバスを待ちながらやっと一服。どうか部屋を替えてもらえますように。
「ファド、楽しみね」
「ええ」
「けど私、ファドってちっとも知らないのよね、アルファマっていうとアマリア・ロドリゲスというより、久保田早紀の『サウダーデ』のイメージが強くって」
「そうよね、私も同じ」
久保田早紀は名前と、リスボンの街に感銘を受けて作ったアルバムがあるということくらいしか知らなかったけれど、まさか「サウダーデ」というタイトだったとは。これは絶対に、帰国したら聴かなければ。
「あら、ミホちゃん、久保田早紀知らないのね。そりゃ、世代が違うものねぇ。『アルファマの娘』って曲がすごくいいのよ」
「どんな曲なんですか」
「船乗りには恋しちゃダメって分かってるけど彼の帰りを待ってるっていう、切ない曲よ」
ああ、思いっきり私の心に刺さる。こりゃ、これからリスボンの下町、アルファマで聴くファドと同じくらい切ないかも知れないな。ポルトガルきっての国民的歌手にしてファドの女王、アマリア・ロドリゲスはアルファマで生まれ育ち、幼い頃はオレンジを売り歩いて家計を支えたという。
私はポルトガル人にしか理解しえない感情である「サウダーデ」らしきものを分かっているつもりでいたけれど、そうでないのか分からなくなってしまっている。芸術は国境や時代を越える、それはきっと真実に限りなく近い事実だろう。では、ひとの心は……?ああ、そんな理屈っぽいことはどうでもいい。お互いが心地よければそれでいいじゃない。今夜、ファドを聴いて、ホテルに戻ったらあのひととまたお酒が飲めたらいい。マデイラのお土産話でもしながらね。