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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<175>

運命の女神

ショッピングセンターを出ると街は仮装をした子供たちと観光客でごった返していた。今日は一年でマデイラが一番盛り上がる日。この日を楽しみにしている人々が沢山いるのだろう。今日が晴れでよかった。

大道芸人や飲み物を売りにやって来る人もそこら中にいてお祭りの雰囲気満点だ。赤いとんがり帽子を被った人がキャラクターや携帯電話を模した風船を売っている。ティアラを頭に載せ、ピンクのドレスを着たお姫様のような少女が風船を選んでいて、その横には父親らしき人が温かい眼差しを向けながら財布を出している。ああ、いいなぁ、こういうの。ここにはドラマがある。人生のひとこまがある。こんな小さな思い出って、一生忘れないものなのだと思う。ふとした時に思い出して、懐かしくてたまらなくなって泣いてしまいそうになるんだ。これはきっと例の「サウダーデ」ってやつじゃないだろうか。私がベージャのポサーダで失くしたあの赤い口紅なんて30ユーロも出せばおおよそ世界のどこでも買えるしなんならさっきの化粧品屋にも並んでいたかもしれない。けれど思い出にはお金に変えられない価値がある。世界中でたった一人、自分にしか価値のない思い出が。ウサギの風船を嬉しそうに、大事そうに手にしている少女もいつの日か今日のことを思い出すのだろう。

16時。カーニバルが始まる時間だ。マデイラの日の入りは何時だか分からないけれどまだ真昼間のように明るい。光あるところには影がある、その影ですら僕は愛している、って誰の言葉だったかな。楽し気な表情をした人たちの影法師が石畳の路に重なっている……。この情景、私はきっと忘れないだろう。

もうカーニバルが始まって半時間ほど経っているというのに、一向に山車はやって来ない。なにかトラブルでもあったのだろうか。ここは日本じゃないから時間には割といい加減なのかも知れない。

大小の船が浮かんでいるマリーナを挟んだ沿道で山車を待っていると
「イラクに侵攻するな!」と書かれたイラスト入りの貼り紙を見つけた。まだ戦争は始まっていないはずだけれど、リゾート客でいっぱいのこの平和な島で誰がビラを作って貼ったのかと思うと悲しいというか切なくなる。私にとっては遠くの国の紛争より自分の周りで起こっている出来事の方がはるかにリアルで深刻なのだ。きっと私は冷たい人間なのだろう。けれど遠くの国の誰かの不幸には涙を流せても自分や周りのことすらロクに考えず、無自覚で近しい人に害をなしているような人間には私はなりたくない。それが私のちっぽけなプライド。

いつまで経っても山車がやって来る様子はない。仮装した人たちが紙吹雪を振りまきながらダラダラと練り歩く姿をもう1時間半以上も見送り続けている。花や果物で飾られた沢山の山車がフンシャルの街を進んでいる写真が旅行社のパンフレットやガイドブックに載っていたのだけれどどういうことだろう。私はカーニバルを目的にツアーに参加したわけじゃないから、ただこうして陽光眩しく色とりどりの花が咲き乱れるマデイラの風景と雰囲気だけ味わえればそれでいいのだけれど。
「山車、来ませんねぇ」
「ええ、これだけなんでしょうかねぇ。終わり、確か18時までですものね。あと15分しかないですよ」
「仕方ないですなぁ。まぁ、思い思いの衣装を着ている人が見れただけでも良しとしますかな」
門田さんのがっかりした表情を見るのが少し辛い。このためにツアーに参加したのにと思うと。

「カーニバルはお楽しみいただけましたでしょうか?山車が出て来なかったのがちょっと残念でしたけれど。どういうことなのかとルシアさんに訊いても分からないと言っているんですよね。本当にすみません」
土田さんが頭を下げる。
「久仁子ちゃんが謝ることじゃないわよ」
「本当、それはしょうがないわ。充分楽しめたわよねぇ」
「ええ、楽しかったです」
誰からも文句なんて出てこない。みんな旅慣れているかなのか、たまたま人格に優れた人が集まっているからなのか、それとも土田さんの人柄なのか。きっとその全部なのだろう。こんなに楽しい旅、もう経験することはないかも知れないな。残りあと4泊、思いっきり楽しんで思い出を沢山作ろう。

マリーナ前のレストランで夕食。すっかり暗くなってライトアップされている街が美しい。美味しいなぁ、魚の串焼きもパッションフルーツのプディングも。ポルトガルのどれもこれもが新鮮だけれど懐かしくて感情を揺さぶられる。

「今晩のお食事はいかがでしたか?夜景が綺麗でしたし、プディングも絶品でした。さて、これからホテルに戻りますけれど、ご希望の方はフンシャルで一番大きなカジノまでご案内します。ドレスコードがあるので一旦ホテルに戻ってからになりますが、行きたい方いらっしゃいますでしょうか?」
マデイラ島はカジノでも有名で、ここ、フンシャルの街にかなりの数があるという。
「行きたいです!」
「私も!」
私は賭け事自体には興味がないのだけれど、カジノの雰囲気は大好きで、去年の初夏にルーマニアのブカレストに行ったときにも一度訪れている。ブカレストはヨーロッパでモナコに次ぐカジノのある街で、夜の街の妖しさがたまらなかった。ネオンサインに誘われ、ルーレットに興じた…..といっても日本円にして数千円しか遣っていないのだけれど、アルコール含め飲み物はすべて無料だったし、擦ってしまっても楽しかった。

ツアーメンバーの女性、いつも一緒に「夜遊び」をしている仲間とロビーで待ち合わせて、バスに乗ってカジノに向かう。今夜、運命の女神は誰に微笑むだろうか?ああ、あのひとは今どこでどうしているの?私は人生を楽しむ。だから今夜くらいは夢を見させてほしい。赤いブーツと新しい口紅が買えるくらいには勝たせてほしい……。