雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<215>
secret public
あのですね……にいったいどんな言葉が続くというのか。ああ……黙って土田さんの目を見る。
「実は、ジョゼさんがですね…….」
ああ、やっぱりそう来たか。しっかりしろ、私。どんな言葉が続いても動揺しないように。
「彼、南様の部屋の番号が分からないそうでして、私に電話を掛けてきたんですけども」
え...…なんだ、どういうことだ……それ。昨日、部屋番号を千切ったスリーブを渡したけれど失くしてしまったのかしら。ああ……けれど連絡があったってことね。続く言葉をドキドキしながら待つ。ああ、いよいよ心臓も呼吸も止まるかも知れない。止まってもいいや。いや、ダメだよ。
「彼に、ジョゼさんに、お客様の個人情報は教えることは出来ないと断ったんです。そうしたら南様に携帯番号を教えてくれと言ってましてね……連絡ほしいそうでして……」
「そうですか………..」
あのひとはホテルに電話を掛けてくれたのか。だけど部屋番号も分からなければ私の名前すらも知らないから取り次いでもらえなかったのかな。
ああ、あのひとは約束を守ってくれた。それだけでもう、充分。ああ、だけど今すぐあのひとに会いたい。一緒に朝まで過ごしたい。今、どこにいるの?会社の寮で私の連絡を待ってくれているの?
「彼の番号、教えますね」
「……ありがとうございます。すみません」
土田さんがバッグに手をやると着信音が鳴った。
「すみません。ちょっとお待ちください」
ああ、あのひとから……?
「ハロー?こんばんは。お世話になっております。あ、それはですね~先ほどお伝えした通り~」
ああ、日本語……旅行社の誰かと会話しているのか。
「ええ、そのようにお願いします。よろしくお願いします」
「お待たせしました」
バッグに携帯電話をしまい、ペンを取り出した。
「あ、メモ帳……ちょっとお待ちくださいね~。あら、ない……」
ファイルに挟まっている紙を千切ろうとしたのでウィーンで買ったエゴン・シーレのリングノートをめくって手渡した。土田さんはしっかりしているけれど案外おっちょこちょいなのかもと思ったーー私とやっぱりどこか似ている。私のペンはロカ岬で宮本さんのご主人に貸したままだ。
「こちらが彼の携帯番号でしてね」
ノートに何桁かの数字が並んだ。
「ありがとうございます。本当にいつもすみません……ご迷惑をお掛けしっぱなしで……本当にすみません」
土田さんが黙って首を横に振った。
ああ、携帯を決して私に使わせようとはしないーー業務用に支給されたものだろうから私用に使わないのは当たり前なのだけれど
「この携帯、使いますか?」と土田さんが持ちかける姿もなんとなく見たくはないからこれでいい。この人が、この人もジョゼさんに好意を持っていることが分かるから。私も一応、女だしさ……。番号を教えたからあとはあなたの好きにして、という彼女の思いが伝わって来てちょっと複雑だ。自分が破廉恥な女だってことをまた思い知らされる。けれどそれも私の自惚れだな。煙草の販売機のそばに公衆電話があったはず。そこからジョゼさんに電話しよう。
「ありがとうございます。本当に。いつもご迷惑をお掛けして…..」
土田さんはまた首を横に振った。
「では、また明日。ごゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
ああ、土田さんは今夜私が眠らないであろうことを知っているのにゆっくり休んでなどと……。嫌だねぇ、こういうのってさ……これまでに誰かと同じ男を巡って争ったことはあったかな。クラブ遊び仲間たちとは好みのタイプがまるで違ったし、顔見知りではなくとも「ブラパン(黒人男性、主に米兵を恋愛対象にする日本人女性のこと。ブラザーパンパンの略)」の間では誰かの男に手を出すのはご法度という不文律、暗黙の了解があった。まぁ、そんなことはお構いなしに色目を使うbitchはいたわけだけれど。
そんなことは今はどうでもいい。早く電話をしなくちゃ。あのひとを待たせるなんていけない。連絡を待っているはずだから。早くしなきゃ、早くしなきゃ。急いで公衆電話に向かう。
ああ!そうだった。コイン!携帯に掛けるには足りないだろう、これだけじゃ。フロントでテレフォンカードを売ってるはず。
「ボア・ノイテ、テレフォンカードありますか?」
「ボア・ノイテ、セニョーラ。ありますよ。何度のにしましょう?」
「一番少ないのでお願いします」
多分、それで足りるだろう。
「かしこまりました」
財布から10ユーロ紙幣を取り出すとICチップが入っている白い花の写真入りのテレフォンカードとお釣りを手渡された。この花、クチナシだな。確かクチナシは中国原産だったと思うけれど、ポルトガルでも栽培されているのかな。子供の頃、通学路で咲き誇っていたクチナシは少し離れていても強く甘い匂いがした……。
受話器を取ってテレカを入れ、ボタンを押す。ピ、ポ、パ……ん?掛からない。もう一度受話器を置いてやり直す……うーん、ダメだ。焦る。汗がにじむ手のひらと額……。ふう。もう一度。番号を押し間違えてはいないよなぁ。メモを見ながらゆっくりボタンを押す。ああ、やっぱり掛からない。ポーっという低い音が虚しく聞こえてくるだけ。掛け方を間違えているのか。それとも携帯には掛けられないとか?いや、今時そんな公衆電話があるだろうか。ああ、携帯に掛けるにはどれかボタンを押す操作が必要なのかも知れないな。説明のイラストを見ても分からない……まいった。どうしよう。
もう一回試そう。落ち着いて。深呼吸、深呼吸……受話器を置いて、再び取ってテレカを入れてボタンを押して……ポー……やっぱり繋がらない。
部屋に戻って土田さんに電話して、私の部屋番号をジョゼさんに教えてくれないかと頼もうか。だけどこれ以上彼女に迷惑は掛けたくないし第一気が引ける。ああ、今何時だろう?このまま会えずに帰るなんて絶対に嫌だ。
受話器を握りしめたまま呆然と立ち尽くす。目に映るすべてのものが霞んで見える……疲れた、本当に疲れた。汗だけでなく涙も出てきそうだ。
ロビーに例の、私をヘビメタと呼んだ男性が……あ、土田さんも隣にいる。私に気が付いてこちらに歩いて来る……
「ヘビメタさん、もう遅いのにこんなところでどうしたの?」
土田さんはなんともいえない表情を浮かべている。
「えっと……」
なんて答えていいか分からない。
「では岡崎さん、例の件、よろしくお願いします」
この人、岡崎っていうのか。
「ええ、分かりました。あ、ヘビメタさん、ゆっくり休んで下さいね」
「やっぱり彼女、ヘビメタですかね~」
「ハハハ…..。土田さん、また連絡します。それでは!」
「おやすみなさい」
岡崎さんを上手いことまいてくれたのは妙な興味を持たれたら厄介だからだろうが、その気遣いがかえってグサッとくる。
「どうしました?」
ああ、この人を頼るのは躊躇うけれど、正直に言うほかはない。あ……まだ受話器、握りしめたままだ。
「この電話、使い方が分からなくて……」
「ちょっと私がやってみましょうか?」
「すみません。お願いします」
ああ……「どちらに掛けますか?」なんて訊かないのが、もうねぇ…….。
受話器とテレカを渡すと私が散々試したのと同じようにボタンを押している。
「うーん、掛かりませんね」
「そうなんですよ。どうやれば掛かるのか全然分からなくて」
「海外の公衆電話って日本のとは使い方が全然違ったりしますからね……もう一度やってみます」
あのひとは私からの連絡をまだ待っていてくれているかな。それとももう寝ちゃったかしら。
「……ダメですね」
どうしよう……なにかいいアイディアはないか。誰にもこれ以上迷惑を掛けない方法で。
あ、お金を払えばフロントで繋いでくれるはず。もっと早くそうすれば良かった。そうしよう。
「お手数掛けてすみませんでした。フロントで頼んでみます」
「あの……私の電話お貸ししましょうか?」
ああ、それはいけない。だけど断るのも躊躇う。
「……お願いします」
土田さんは携帯を取り出すと手慣れた様子でボタンを押し、耳に当てた。
「ハロー?ジョゼ?ミホがあなたと話したいと…….Sim、今、彼女もいるの。彼女に替わるわね」
「彼、出ました。お話しください」
軽く頭を下げて、電話を受け取る。
「ハロー?」
「やぁ、セニョーラ。連絡が付かなくて……うん?もちろん会いに行くよ」
「オブリガーダ…….どこで待ち合わせる?うん、何時に?分かった。待ってるね。必ず来てね」
あのひとと会える!これほどの歓びなんて今はない。ああ、化粧をまた直さないとね。部屋は片付いているけれど、ちゃんと整っているかチェックして……ワインを用意出来なかったのはあれだけれど、もうなんだっていい。あ、浮かれている場合じゃない。土田さんに携帯を返さないと。あれ、いない。どこに行ってしまったのか。携帯を手にしてロビーに出るとフロントで話をしている。ああ、気を利かせてくれたんだな……本当に申し訳ない。合わす顔がないってのはこのことだ。
「お話、出来ましたか?」
「ええ、ありがとうございました」
「良かったです。では明日」
「ありがとうございます」
色んな思いが交差する。でもそれは一旦忘れよう。あのひとが来る前に、あのひとを迎える前に急いで部屋に戻ろう。