雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<189>
月夜
3曲目が終わってしまった。鳴り響く拍手。ああ、もう行かなけりゃ…………
目いっぱい拍手をして席を立ち、ギター奏者に一礼してから
「ボア・ノイテ、いい夜をありがとう」と
ドアのそばにいるお店の人につたないポルトガル語で挨拶をすると
「ボア・ノイテ、セニョーラ。またお待ちしていますよ」
と右手を差し出してきた。
別れの握手をこれまでどれだけの人と交わしただろう。再会出来た人はそのうちどれだけいたかしら。ああ、これが人の世。切なくてたまらない。まさにこれはファドが歌い上げる心、サウダーデ。
外に出ると月の明かりが眩しい。あれ、みんなバスに乗らずお喋りをしている。宮本さんのご主人は少し離れたところで携帯灰皿を片手に一服中だ
ーーああ、やっぱり気を利かせて先に店を出てくれたんだなぁ。だけど私、あのひとと一言も交わせなかった……せっかくの心遣いを無駄にしてしまって申し訳ない。
あ、バスのドアが閉まっている。だからみんな待ちぼうけでお喋りをしているのか。辺りを見回すとジョゼさんはいないし土田さんの姿もない。土田さんは店内で精算やらなにやらしているのだろうけれど、あのひとはいったいどこにいるのやら。
お店からギターラの音色、そして歌声が聴こえてくる……いつかまたここに戻ってきたい。握手を交わしたあのおじさんにもまた会えるかしら。もし会えたら私を覚えていてくれたら嬉しいな。
土田さんが店から出てきた。いつも元気いっぱいなのに少し疲れた顔をしている。
「大変お待たせいたしました。ちょっとお店側とあれこれありまして……。でもなんとか無事に終わりました」
添乗員さんは本当に大変だよなぁ。現地に着いてからじゃないと分からないことやトラブルも多いだろうし、対応に困ってしまうようなお客も沢山いるのだろう。今回の旅で一番厄介な客は私に間違いない。いや、私以外におかしな人は一人だっていない。カジノで夜遊びして翌日眠そうな顔で観光したって、頭に紙吹雪の3枚や4枚くっ付けていても誰の迷惑になるわけでもない。今後私はE旅行社のツアーには参加出来ないかも知れないけれど、ツアーメンバーとはこれからも細く長いお付き合いがしたいからこれ以上愛想を尽かされるようなことはしたくない。
「ジョゼさん、遅いわね。どこ行っちゃったのかしら」
「もう10時半廻ってますね」
「ホテルに帰るのは何時になるかしら。眠くって眠くって、さっきから欠伸が止まらなくて。さすがに今日は疲れちゃったから早いところ休みたいんだけど」
「そうですよねぇ」
私もかなりくたびれているけれどホテルに戻ってもすぐにゆっくりは出来ない。まずは部屋を替えてもらわないといけないし、それに……
「ミホちゃんも眠たそうねぇ。もう一服したら目が覚めるんじゃない?」
「そうですねぇ……」
煙草を吸いながら石畳の小路をブラブラ歩く。辺りにはファドを聴かせる店だけでなくレストランやバーが並んでいてあちらこちらから楽し気な話し声や音楽が漏れ聞こえてくる。アルファマの夜はまだ始まったばかりーーここには夜と朝だけがあるのだろう。妖しく灯る店のネオンサインは月よりも綺麗だ。
あ、ジョゼさんがバスに向かって歩いている……あれ、店から出てきたような?ずっと店内にいたのかしら。お腹でも壊してトイレにいたのかな。それとも髪を直していたとか?まさかねぇ。なんだか分からないけれどあなた、待たせ過ぎよ。
みんな疲れた足取りで次々とバスに乗り込む。あ、門田さんの頭の紙吹雪はとうとう無くなっている。なんだか無性に寂しい。どこに落ちているのだろう、あの紙吹雪……。石畳の隙間に挟まっているのか、風に舞ってあてのない旅をしているのか。帰国したらこれを題材に詩やエッセイでも書いてみたい気がする。
「みなさま、大変お疲れ様でした。ファドもダンスも素晴らしかったですね。これからホテルに向かいますが明日は少し早いですのでお戻りになられたらごゆっくりお休みいただけたらと思います。到着までマイクを置きますので、お元気な方は車窓風景をお楽しみいただき、疲れちゃったわという方はしばしお身体を休めてくださいませ」
ああ、無事に部屋を替えてもらえるだろうか。それだけが気がかり……いや、それだけじゃない。今夜、ジョゼさんと話が出来るだろうか。けれど部屋が替わるかも知れないとどうやって伝えよう?
夜のリスボンをバスはひた走る。あ、もうロシオ広場まで来たのかな。黄色い路面電車を待っているらしき人たちがいるし、商店は閉まっているところもあれば客で賑わっているところもある。いつか絶対にこの街に戻って来よう。今度はツアーじゃなくてひとりで自由気ままな旅をしよう。そうだなぁ、リスボンだけに1週間くらい滞在するのはどうだろう。出来ればロシオ広場近くに宿を取って、メトロや路面電車に乗って、歩き回ってショッピングをしたり良さそうなレストランやバーにふらっと入ってさ。ああ、眠い……リスボンの夜の街を眺めていたいけれど睡魔が襲ってくる。
「みなさま、お休みでしょうか?ホテルにあと少しで到着いたします。お疲れのところ申し訳ありませんが、そろそろご準備をお願いいたします」
ああ、眠りたくなどなかったのに……!もう着いてしまうのか。どうしよう。あのひとにどう話し掛けようか。部屋が替わるかも知れないなどと伝える余裕はないだろう。しかし、私はジョゼさんと今宵、そして朝まで一緒に過ごしたいのだろうか?それさえも分からない。だけど、だけど……。
そうだ、メモを渡そう。「今夜会いたい」と一言だけ書いて、今の部屋の番号も添えよう。そうする他ないじゃないか。急いでバッグからメモ帳とペンを取り出さないと。けれどなんてことだ!メモ帳もペンもない!こういうときにはまず深呼吸だ。ああ、だけどやっぱり見つからない。どうしよう、どうしよう……。
「お疲れ様です。ホテルに到着しました」
どうしよう、どうしよう。バスが停まって、みんなは降りる準備をしている。ああ、そうだ……カードキーのスリーブがあるじゃないか。
「ボア・ノイテ」
「ボア・ノイテ」
ツアーメンバーはジョゼさんにおやすみの挨拶をしながらバスを降りてゆく。
私はいつものように最後。スリーブに印字された部屋番号の部分を千切ったのを無言でジョゼさんに手渡してから降りたーーだって私、あなたとまたお話しがしたいんだもの。夜が明けるまで。