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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<172>

オレンジジュース、ジョニーウォーカー

搭乗手続きを済ませたけれど、出発まで2時間ある。売店で飲み物とドイツ版VOGUEを買ってロビーで読む。今年の夏のトレンドはサファリルックと赤い小物らしい。付録の小冊子は美容特集。新しい口紅が欲しいな。サンローラン、シャネルにボビーブラウン……チープなポルトガルのメーカーのでもいい。ああ、アルブフェイラのお店の赤いブーツ、もう売り切れちゃったかな。

「次会えたらポルトガル語で話したいな」とあのひとに言ったのになぜ私はドイツ語の雑誌なんて買ってしまったのか。次があるならば約束を守りたい。いつかのその日のためにマジメにポルトガル語を勉強しなきゃいけないのに。本当にここ数日の私はおかしい。

「ミホちゃん、なに読んでるの?これ、飲まない?」
ツアーメンバーがカップに入った生搾りのオレンジジュースを差し入れてくれた。
「ありがとうございます。これ、ドイツ語のファッション雑誌です」
「ドイツ語も読めるの?すごいわねぇ」
「いやぁ、ただなんとなく眺めてるだけですよ」

オレンジジュース、美味しい。余計なことを、野暮なことなんて訊いてきやしないツアーメンバーの心遣いがありがたい。

「アテンション・プリーズ……エア・ポルトガル航空4665便、フンシャル行きのお客様、間もなく搭乗開始です。搭乗ゲートに……」

ああ、私はまだリスボンにいるんだなぁ。ジョゼさん、今どこにいるの。ジャケットからコロンの香りがする。この香りを日本に持ち帰りたいけれどそれはそれで切なくて泣いてしまうかしら。けれどあなたのことを時たま思い出したいの。

飛行機は定刻通りマデイラに向けて飛び立った。東洋人らしき人は我々以外にはいない。わずか約1時間半と少しのフライトなのにしっかりとした食事が出る。さっき食べたばかりでお腹いっぱいだけれどちょっとだけつまんでみよう。これ、ラザニアかな。美味しい。
「セニョーラ、お飲み物はいかがいたしましょう」
「Sumo de laranja,por favor」
いつだってポルトガルのオレンジジュースは美味しい。

斜め後ろがなんだか盛り上がっている。振り返ると大山さんが折り紙で鶴や船を作り、日本の工芸だよと言って近くの席の人に配っていた。
「ミホちゃんもやる?」
こう見えても私は子供の頃、折り紙が得意で今でもいくつも折り方を覚えている。うーん、なにを折ろうか。まずはユリ。折ったあとにくるんと花びらを巻くのがポイントだ。
「うわぁ、器用ねぇ」
周りの人が感心しながら見ている。
「じゃぁ、次はこれ。なんだと思いますか?」
「なにかしら。ああ、日本画でこんなの見たことあるわ」
「これは日本のお化けです」
日本の幽霊というのは脚がない。けれど私が折ったお化けには脚があるし手は「うらめしや」と伸びていて、笠まで被っている。
「これ、貰ってもいいかしら」
「どうぞどうぞ」
次はなにを折ろうか。私の手元に注目が集まる。そうだ、子供の頃よく折っていたあれにしよう。
「すごいわ!これはセーラーの服ね。あなた、マジシャンみたい!」
折り紙の一枚や二枚でこんな風に国際交流が出来るのが面白いし、気がまぎれる。
「これはカエルです。見ててください」
指で押さえて離すとピョーンと飛ぶ。
「Wow!これは楽しいわ」
みんな童心に帰っている。
「ミホちゃん、すっかり人気者ね」
「いやぁ、楽しいです。久しぶりに折り紙なんてしましたよ」

もう少しでマデイラ島に到着するというアナウンスが流れる。時計を見るとリスボンを発ってから1時間半経っていた。

マデイラの空港は海の上に滑走路が延びているという特殊な構造をしている。世界で最も危険な空港の一つに選ばれているというだけあり、工事が完了する前には着陸時に曲芸のような操縦技術が要されたそうだ。

マデイラに無事に到着。
「楽しかったわ、オブリガーダ。ジャパニーズお化けやカエル、子供へのお土産にするわね!」
ただなんとなく折っただけなのにこんなに喜んでくれるなんて嬉しい。
旅はこうでなくては。出会いと別れの繰り返し。ほんのひと時でも楽しい時間が過ごせればいいし、一生の思い出にもなる。

本土から離れているとはいえ、国内なのでなんのチェックもなくスーツケースを受け取って到着ゲートに向かう。

空港の外に出ると風が生暖かい。ここは南国、マデイラ島。ああ、随分とまぁ、遠くに来てしまったもんだなぁ。がっちりとした体型で眼鏡をかけた髭面の男性がプラカードを持ってバスの前に立っている。この人がこれからお世話になるドライバーさんだな。

「みなさま、お疲れ様です。マデイラ島に到着いたしました。まずはマデイラの旅をご一緒するドライバーさんをご紹介します。ゴンサーロさんです!」
ゴンサーロ……名は体を表すというかなんというか、ぴったりな名前だと思った。

窓の外に見たことのない植物が植えられている。一体どこまで続くのというくらいにずっとずっとこの植物ばかり目に付く。
「すみません!この、さっきからやたら見かける植物はなんですか?」
後ろから誰かが大きな声で土田さんに訊く。私だけじゃなかったんだな、この植物が気になるのは。
「こちらは竜舌蘭です。テキーラの原料でしてね。日本でも植物園なんかにありますけれども、群生しているのは日本では見られない光景ですね」
門田さんがシャッターを切っている。今日も熱心にホームページを更新するのだろう。

30分ほどしてホテルに到着した。今夜からここで3泊する。マデイラ島なんて行きたくないって思っていたけれど、私は人生を楽しむんだ。目一杯マデイラの陽光を浴びて、美味しいものを食べて、ショッピングを楽しんで……。それにここにはマデイラワインもある。ポートワインやシェリー酒と並ぶ、酒精強化ワインが。

夕食はホテルのビュッフェ。ヨーロッパの色んな言葉が飛び交う中、日本語で会話をする我々。
「明日は晴れてほしいですねぇ。カーニバルは雨天決行でしたっけ?」
「小雨なら決行するようですけど、明日は晴れると思いますよ」
「晴れてくれないと困りますなぁ。そのためにこのツアーに参加しましたから」
世界中を旅して、ホームページ作りをライフワークにしている門田さんにとっては天候はなにより重要なことだろう。私は明日晴れようが曇天だろうが雨降りだろうが気にしないけれど、せっかくマデイラまで来たのだからカーニバルを見なくちゃ。

夕食後、部屋に戻る前にバーに寄る。お酒を飲もう。
「セニョーラ、なににいたしましょう?」
「……ジョニーウォーカー、黒。ダブル、ロックで」
「かしこまりました」
グラスの氷が音を立てた。
ああ、ジョゼさん、今どこにいるの。マデイラはリスボンから離れているけれど時間は同じ午後9時半。

「セニョーラ?どうしたんだい、浮かない顔して」
隣でワインを飲んでいる男性に声を掛けられた。
「She's thinking about……her life」
バーテンダーがそう言うと
「そうだな、きっとそうに違いない!」
男性は笑みを浮かべた。
「そうよ、人生について考えてるのよ」
「そうだ。たった一度きりの人生、楽しまなきゃな」
「サウージ」
「サウージ」

「あなたはどこから来たの?私はジャパンから」
「僕はアヴェイロ。けど出張で今日、マデイラに着いて、数年間ここにいる予定だよ」
「アヴェイロ!素敵な町だったわ。モリセイロ、オヴォシュ・モーレシュ(卵黄のクリームが入った最中のようなアヴェイロのお菓子)…….」
「Oh!君は本当に人生ってやつを知っているね!」

マデイラの夜も悪くない。いい夜だ。
「もう一杯、同じのを」
「かしこまりました、セニョーラ」

リカルドと名乗るこの男と酒を飲みながら話しているとツアーメンバーの女性3人がやって来た。
「あ~!ミホちゃん、また夜遊びしてるのね!ご一緒してもいいかしら?」
「もちろんです」

みんなで飲むお酒が美味しい。いくら感謝してもしきれない。本当にツアーメンバーはみんないい人ばかりだ。こうしていると少しだけ、ほんの少しだけあのひとを忘れることが出来る。