雷雨の翌日にわたしは生まれた（仮）＜１６９＞

言霊

旅をしていると曜日の感覚があまりない。町の小さな商店が軒並み閉まってるからきっと今日は日曜だな、とかなんとなく気付くけれど。日本では日曜日や祝日に開いていない洋品店や日用雑貨店などあるだろうか。旅というのは不自由さも楽しむものだと思っているから店が閉まってようと気にしないといいたいところだが、お目当ての美術館や通りすがりの素敵なお店が閉まっていると少し残念だ。もう二度とここには来ないだろうと思う場所ならなおさら。

出発までホテルの周りを少し歩く。あ、この赤いブーツ、カッコいいなぁ。35ユーロか……。ポルトガルやスペインではいい革を使ったお洒落な靴やバッグが安いとは聞いていたけれど、ここまで安いとは。これまで自由時間中に寄ったお店はほぼ、スーパーマーケットとカフェばかり。私のバカ。大バカ。どうして服屋や靴屋を覗かなかったのか！後悔先に立たず。ああ、このブーツが欲しい！欲しすぎる。無情にもドアには「Closed」の看板が掛かっている。今日は月曜だけれど開店までまだ２時間以上ある……ううっ、悲しい。残りの５日、自由時間にはショッピングをするぞ。服屋に雑貨屋に靴屋……このブーツより気に入るものがあるといいなぁ。けれどなんだか見つからないような気がする。私はこの赤いブーツが欲しいんだ。

今日の午後にはジョゼさんとお別れ…….出来るだけ考えないようにそんなことで頭をいっぱいにするけれど、やっぱりどうしてもちらついてしまう。

いつもの青い大きなバス。これに乗るのも今日で最後……ジョゼさんは運転席に座って新聞を読んでいる。ツアーメンバーにとってはいつもの朝。私にとっては………….
顔を見るのは少し照れ臭いけれど挨拶せずに無言で席に着くのもいかがなものだろうか。ああ、しかし……これが最後の朝の挨拶だと思うと……ああ、本当にこのひとは悪い男。
「ボン・ディア」
精いっぱいの笑顔で挨拶をする。私に笑顔は似合わないのだけれど。
「ボン・ディア」
ジョゼさんは微笑む。あ、ネクタイが少しだけ曲がってる……ああ、もうダメだ、私。泣かないって約束したけれどリスボンの空港で絶対に泣いてしまう。

「おはようございます。本日もよろしくお願いいたします。お財布、パスポート、入れ歯、老眼鏡、お手元にございますでしょうか。今日はいよいよマデイラ島に飛び、しばしポルトガル本土とお別れです。これから向かいますのは～」

なにか起こってマデイラ島に行けなくなるようなことでもあればいいのに。たとえばストライキで数日間フライトが運休するとか。ああ、そんなことなんて考えちゃいけないのにやっぱり私はおかしい。そうだよなぁ、私がたとえどんなに願ったとしてもジョゼさんはそんなことは望んでないかも知れないじゃないか。一昨日と昨日の晩、そしてさっきまでの短い時間を過ごしただけ。それだけの相手。どんなに甘く切なくとも所詮ゆきずりの関係じゃないか。ううん、ゆきずりだからこそ、甘く切ないんだ。こんな気持ち、もう一生感じることはないと思う。二度とは戻ってこない時間や感情…….「サウダーデ」なんて言葉、知らないままでいたかった。知らぬまま一生を終えたかった。極寒の地に住むイヌイットは西洋人が発した「寒い」という言葉を知ってから寒さを感じるようになったというのは本当だろうか。「肩凝り」という言葉を知らなかった人に肩凝りとはどういうものなのか説明したとたん肩の痛みを感じたという話も。ああ、言霊ってやつは本当にあるのかも知れない。

「シルヴァスに到着する前に、アルガルヴェ地方に伝わるお話をいたします……。昔々、この地に北欧から嫁いで来たお姫様がホームシックになってしまったそうでしてね。故郷の雪景色が恋しいとずっと嘆いていたのだと。王子様はお姫様を喜ばせるためにはどうしたらいいのかと一生懸命考えたんです。ある朝、王子様は沈んだ顔のお姫様に窓の外を見せるとまるで雪が積もっているかのようなアーモンドの白い花が沢山咲いていて……お姫様はいたく感激し、それからずっとこの地で一生幸せに過ごしたそうです。素敵なお話ですね！あ、２時の方向、白い花が咲いてる木が見えますでしょうか？あちらがアーモンドです。お花、ソメイヨシノに似ているんですよね。白くて少しピンク色で。遠目から見たら勘違いしちゃうくらいです」

そうか…….私は日本では桜が咲く頃、ポルトガルではアーモンドの花が咲く頃に生まれたんだなぁ。「故郷が恋しい」といくら言っても故郷に咲いていた花を植えてくれる王子様なんて私にはいない。そもそも、故郷に咲いていた花ってなんだろう。ああ、ハナニラ…….私が小さい頃に道端に咲いていたあのいい匂いの、エーデルワイスだと信じたかったあの花。

「ねぇ、『マツバギク』ってポルトガル語でなんていうの？」そんな質問をポルトガルにいる間にしてみたい。誰に……？