雷雨の翌日にわたしは生まれた（仮）＜１９０＞

phone

随分と大胆で、はしたないことをしてしまったと我ながら思う。けれどもう取り返しは付かないし、後悔もしていない。

解散前に人も疎らなロビーに集まった。もう２３時を過ぎている。今にも舟を漕ぎそうなツアーメンバーたち。忙しい上に疲れている土田さんに部屋の件はどうなったのかと訊くのは心苦しい。自分でフロントに行って部屋を替えてくれないかと頼むくらいは出来るけれども、替わったら替わったでその旨を土田さんに電話で伝えなければいけない。ああ、参ったなぁ。今日は諦めようか。

朝食は７時から。ロビーに９時集合。思っていたよりはゆっくりだ。ジョゼさんと会って少しでもお話し出来るかしら。いいの。ほんの少しで。お酒なんか飲まなくたっていいし、なんなら電話で「おやすみ」と挨拶するだけでも構わない。今日はもう遅いから……。

「ではみなさま、ゆっくりお休みくださいませ」
「お疲れ様でした。おやすみなさい」
「おやすみなさい、また明日」
「おやすみなさい」
「私はちょっと用事があるので……すぐ戻りますけど……おやすみなさい」
「あらぁ。用事っていったいなにかしら？ウフフ……けどきっと大事なことよねぇ。じゃ、私たちは遠慮なく先に行くわね。おやすみ。また明日ね」

夜遊び組の女性たちに冷やかされ、なんと答えていいのか分からず苦笑いをしながらおやすみなさいとつぶやいた。私はただ、部屋を替えてもらうという用事があるだけ。これは本当。煙草を吸いたくなったらロビーに来ればいいとも思ったけれどこんな夜は部屋で煙草が吸いたい。フロントで替えてもらえないか訊こう……。

席を立つと書き物を終えたらしい土田さんが声を掛けてくれた。
「南様、大変お待たせしてすみません。お部屋の件、今から訊いて参りますのでこちらでお待ちください」
お願いするのは気が引けるけれども私が自分で、と申し出たらかえって面倒を掛けてしまうかも知れない。
「すみません、お願いします」

ああ、煙草が吸いたくてたまらない。けれど我慢するしかない。今火を付けたらフロントで交渉してくれている土田さんに失礼過ぎる。

「お待たせしました。今日は満室で、他に空きがないそうでしてね」
ああ……ダメだったか……
「ですが、お煙草を今のお部屋で吸っても構わないとのことです」
えっ、こりゃ驚きだ。ここはそこそこ高級なホテルなのにポルトガル人ってやつは適当というか、細かいことなどは気にしないのだろうか。
「お手数お掛けしました。けれど本当に大丈夫なのですか」
「問題ないと言っているので、そこはもう、いいと思います」
「ありがとうございます」

まずは一安心。部屋で堂々と煙草が吸える。それにジョゼさんが電話を掛けてくれたのに誰も応答しなくて困惑させてしまうかもという懸念もなくなった。

「本当にありがとうございました。おやすみなさい」
「ごゆっくりお休みください。では、また明日」

自動販売機で紺色のSGを買ってからエレベーターに乗って部屋に戻る。ああ、疲れたなぁ。それに眠いし汗を流してさっぱりしたい。けれどシャワーを浴びていたら電話に気付かない。あ……電話が鳴ったらすぐに出られるように、バスルームのドアを開けたまま水量はちょろちょろと最小限にして……けれど化粧はまだ落とさずに……髪だけは洗おう。

ああ、アルブフェイラの夜を思い出す。あのひとは隣の部屋にいて、夜遅くに電話をもらって、急いでシャワーを浴びていたら壁伝いにシャワーの音が聞こえてきて……それから用意してくれたワインを一緒に飲んで朝まで過ごして……

電話、鳴ったかしら……いや、鳴っていないはず……ずっと開けっ放しのドアの向こうを気にしながらシャワーを浴びているから……あなたは今、部屋で新聞を読みながら一服でもしているのかしら。そうね、そうに違いない。あなたはいつも新聞を熱心に読んでいたものね。

髪にタオルを巻いて寝室に戻って来たけれどしんとしている。静かなのは当たり前なのだけれど、今夜はなんだかひとりでいたくない。私、待っていてもいいのかな。今、電話が鳴ってくれないと髪を乾かさないまま朝までベッドに倒れ込んでしまいそうなくらい眠たいのよ。

深呼吸してからSGの封を開けて火を付けた。あ、灰皿……この部屋は禁煙だからあるわけがない。携帯灰皿で間に合わせることにしよう。ホテルメイドに頼んでもいいのだけれど、こんなことで呼び出すのもいけない。もう遅いし……

仰向けでベッドの端から脚を半分投げ出して…….私、眠ってしまったの…….！ああ、もう３時……電話、鳴ったかしら？鳴ったなら気付かないわけがない。それともひどく疲れて気付かなかったのだろうか。分からない。けれどもう電話は来ないだろう。

哀しい、悲しい。もう一服だけしてからまた眠ろう。眠れるかどうか分からないけれど。化粧を落とさなきゃ……。

バスルームの鏡に映る私の顔が醜いーーああ、どうしてマデイラに発つ前でお別れしてくれなかったの？なぜ、さっきファドの店でウィンクなんてしたの…………。