雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<207>
I’m waiting for the man
急いでドライヤーのスイッチをオフにしてバスルームを出る。脚には水滴が少しついたまま。呼吸を整える。深呼吸をする。
「ハロー?」
「お休みのところすみません。土田です」
え…………いったい何事か。なんの用か。
「お部屋のことなんですけども、喫煙の部屋が空いたそうなのでそちらに移動していただけますが、いかがいたしましょう」
移動……?部屋を移ったらあのひとからの電話が取れないじゃないか。そうしたら今夜、会うことは叶わないだろうーー電話をして私が出なかったらあのひとはどうするだろう?あ……だけど……あのひとはどうやら私の名前を知らないっぽいからホテルに電話を掛けてこの部屋、233に繋いでくれと言っても名前も分からない相手には取り次ぐことが出来ないと断られるのではないか……?伝言くらいは預かってくれるだろうけれど……ああ、どうしよう。いまさらそんなことに気付いてせっかくシャワーを浴びたのに額と受話器を握る手に汗をかいている。ああ、どうしよう、どうしよう。ここは土田さんの言う通りにした方がいいのかな。けれどやはり部屋を替えない方が賢明だろう。荷物をまとめて移動する時間の余裕もないし、髪だってまだ濡れたままだし……。
「このままこの部屋ではダメでしょうか」
「そうですねぇ……それでも問題ないかと思いますけれども」
「問題ないかと」「思いますけれど」ってどういうことか。やっぱりこの人は意地悪をしているのかしら。ああ、いけない。また被害妄想……。
「……もう、シャワーを使ってしまったんですよね。タオルも、シャンプーやらアメニティも」
「そうでしたか。では、そのままお使いくださっても結構でございます」
「ありがとうございます」
「あ、空いたお部屋というのは今いらっしゃるお部屋よりグレードが上でして、より快適にお過ごしいただけるかと思います。高層階ですので夜景もお楽しみいただけますが……」
ああ、この部屋でいいと言っているのに!どうしても部屋を替えさせたいの……?なにかそうしたい理由でもあるの?
「この部屋、気に入っているので、このまま移らずにいても差し支えなければそうしたいのですが。わがままを言って申し訳ございません」
「……分かりました。ではご夕食、お伝えした通り7時半ですのでそれまでごゆっくりお寛ぎください」
「ありがとうございます」
釘を刺されたのかな。また。ゆっくりと寛げるわけがない。「みんなと一緒に夕食を取ってね、どこかへ誰かと行かずにね」と圧を掛けられているみたいだ。今頃ツアーメンバーはリスボンの街を楽しんでいることだろう。黄色い路面電車に乗ってあちこち廻って。あのひとはもう、会社に着いているかな。ああ、私の名前を教えておけばよかった……というか、何時にどこどこで待っててと言ってくれていたらこんな心配をせずに済んだんだよなぁ。でも、話は中断せざるを得なかったし……。
仕方ない。落ち着こう。バスルームに戻って髪をしっかり乾かさないと。醜い顔をしているなぁ……。化粧では誤魔化せないかも知れないくらいひどい顔。
ベッドに腰掛けて化粧水を染みこませる。そして乳液、下地、ファンデーション……あ、今朝、化粧を落としたのは覚えているけれど化粧をした記憶がない。私、まさか今日一日化粧をせずにリスボンの街を歩いてしまったのかしら。そんなわけないよね……そうだ。確か、シントラのカフェのトイレで化粧を直したっけーーバッグを開くとポケットにはちゃんとアイシャドウが入っている。ああ、よかった。素顔で外に出たなんて、あのひとに化粧をしていない顔を見られたなんて死ぬるほど恥ずかしくてたまらないもの。
眉毛を描き終えてアイライン、そしてアイシャドウ。頬紅は口紅の前。結局、ベージャで失くした赤い口紅の代わりは買えなかった。明日、パリの免税店で買おうか。ああ、もう明日の今頃は……もう、早く連絡してよ。今夜あなたに会えなかったら私、ポルトガルが嫌いになって「ポルトガル」という文字を見ただけで苦しくなっちゃうかも。それはあのひとのせいでも誰のせいでもないけれどねーーどうして私はこんなにも弱いんだろう。もっと強くならなきゃ。
化粧は済んだけれど、まだ電話は鳴らない。ああ、落ち着かない。一服しよう。ポサーダでもらったマッチで火を付ける。ふぅ…….。このまま部屋で連絡を待つか、気晴らしに少し外に出るか。あ、今、何時……?6時半!?夕食まであと一時間!ツアーメンバーはそろそろ戻っている頃かしら。一時間か……微妙だ。近くを散歩するだけならちょうどいい。そもそも夕食はみんなと一緒に取らなくてもいいのだし、あのひとは我々が7時半に夕食を取るということなんて知らないだろうから連絡が来るならそれ以降ということもあり得るわけだ。そうね。「どうにか抜け出すよ」って言ってたものね。今、どうにかしている最中、きっとそう。会社の人に怪しまれないように、妙な興味を持たれないように万全を期してランデヴー……
あのひとが、あんな素敵な人がどうして今夜会いたいと言ってくれたのか分からないけれど、気まぐれってやつで全然構わない。ああ、私に、女に恥をかかせたくないという思いやりからかも知れないな。昨晩、余計なことなんてしなければよかったと少し後悔しているーー部屋番号を千切ったスリーブを手渡すなんてこと。もっとクールに装えばよかった。男女の機微を聡い、粋に遊べるほどには私はまだ成熟していないということを思い知らされる。もうすぐ26になるというのに。もう、私はマドモアゼルやセニョリータじゃなくてマダム、セニョーラと呼ばれる年齢なんだ。下品な言葉でいえば、ションベン臭い小娘なんかじゃない。日本ではティーンエイジャーから20代半ばの女性はただ若いというだけでもてはやされるけれど……。
私、このままここで待ってていいのかな。少し疲れたしお腹も空いてしまった。みんなと一緒に夕食を取ろうか。けれど、その間に電話が来たら……?あ、いいことを思いついた。フロントに予め伝えておけばいいんだ。誰かが私に繋いでほしいと電話を掛けてきたり直接ここに来たら伝言を受けてくれと。なんでもっと早く思いつかなかったのか!夕食まで45分か。間に合わなくてもいい、パスしたっていい。フロントに寄ってから散歩がてらにワインでも買いに行こう。日が暮れたリスボンの街へ出よう。