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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<186>

ファドの調べ

バスはリスボンの中心部へと走る。私が知っているヨーロッパの首都と比べたらかなり地味な印象だけれど海沿いの街というだけで気分がいいし、ちょっと怪しげな通りもあれば人通りの多い賑やかな通りもある。まさに私の好みだ。たまらないなぁ。これまでに訪れた、昼と夜とでは違った表情を見せる街はどこもすごく魅力的だった。ニューヨーク、ブカレストにモスクワに……リスボンはどうだろうか。それを知るには時間が足りない、足りなすぎる。10日くらい、他のどこにも行かずに一つの街にゆっくりと滞在する旅がしたい。街のあちこちを散策したけれど、もっともっとこの街を知りたい、居たい、名残惜しいからまたすぐにここに戻って来たいと思うような旅を。

子供の頃からずっと憧れだったヨーロッパ。その全部の国に私は行ってみたい。そうだなぁ、あと10年で全部の国を踏破したい。ずっとこんな暮らしが出来るかしら。旅行のためだけに働くのはちっとも嫌ではない。けれど人生ってやつは分からない。なにが起こるか分かりゃしない。私は既に真っ当なレールから外れて生きる道を選んで突き進んでいるし、後悔など微塵もないけれど…...。

「あ、ロシオ広場!」
後ろから大山さんの声がした。
ロシオ広場はリスボンで一番有名な広場で繁華街、鉄道、路面電車やメトロの複数の路線が通っている。いいなぁ、あのくすんだ黄色の路面電車。あてもなく乗り込んで風任せに降りて、彷徨って……。けれど今回の旅では残念ながら乗る機会はないだろう。いつかまた来たときのお楽しみにしよう。

それにしてもツアーメンバーはみんなただ年齢を重ねているのではなく豊かな経験をしている人ばかりだ。大山さんはどこかのホテルのロビーで私と二人きりでいるときに大学を出てから女子高で数学の教師をしていたけれど定年退職して、その後ご主人を亡くしてからはずっと行きたくても出来なかった海外旅行を楽しんでいるのだと話してくれた。私は算数も数学も大の苦手だった。今でもたまに、答案が解けなくて焦っている夢を見るくらいだ。けれど数学ほど吐き気がするほどエレガントで洗練されている学問はないと思っているし、ちゃんといちから勉強がしたいとも思っているーーああ、私は数学に永遠の片思いをしているのかも知れない。定理も文学も、この世の事象を説明、記述しようと試みているという点では同じ……こんな話が出来る人たちと出会えて本当に嬉しいと、この旅で幾度思ったことだろうか。

ファドレストランに到着。細く入り組んだ路のアルファマ地区は情緒満点。きっとここは夜が格別に素晴らしい一角だろう。明日の昼にも観光するからそれも楽しみだけれど、こんな通りを夜に一人で彷徨ってみたい。ふらっと入ってみたバーでお酒を飲んで、居合わせた人たちと片言のポルトガル語で話して..….。しかしこれも今回の旅ではお預けだ。ホテルから随分と離れた場所での自由行動、しかも夜遊びなんて出来ない。けれど今宵はこれからみんなでファドを聴く。それだけで充分。

店内には幅の狭い長テーブルが1つ。4人掛けや2人掛けのテーブルがそれぞれいくつかあって食事を楽しんでいる人たちがいる。各テーブルの間は人がギリギリすれ違えるかどうかくらいのスペースしかない。一見すると適当に置かれているようにみえるが絶妙な配置だ。壁にはアズレージョや陶器が飾られていて、洒落た大小の木枠の窓もいい雰囲気を醸し出している。天井が低いのもなんだか隠れ家っぽくて素敵。

夜遊び組の女性全員と私、そして一人参加の男性と友人同士で参加している女性2人が長テーブルに着席した。土田さんとジョゼさんは長テーブルから離れた2人掛けの小さなテーブルで話をしている。ああ、私、今夜ジョゼさんに話し掛けるチャンスなんてあるのかしら。あのひとが話し掛けてくれるのでもいい。それとも今夜遅くに部屋の電話がまた鳴るかしら。けれど私の部屋は……。

まずはトマトのスープが運ばれてきた。濃厚な味わい。ポルトガルの料理は美味しいだけでなく、五臓六腑に染み渡ると全身の細胞が喜び、血肉となって心も身体も浄化される気がする。
ポルトでも食べたポルトガル風ブイヤベース、カルディラーダをいただきながらツアーメンバーとのお喋りが弾む。
「いよいよ旅も終わりね。楽しかったわぁ。ポルトガル、こんなに素敵な国だとは思わなかったわ。予想以上、期待以上」
「大山さんは2度目でしたよね?」
「そうよ。ずっと昔に来てすごく気に入ったからまた来たの」
「私は2回以上行った国ってインドしかないのよね。インドはもう、10回以上」
「意外です。伊藤さんはヨーロッパがお好きなんだと思ってました」
「そんなことないわよ。ヨーロッパよりはエキゾチックな国が好きなのよ。ウズベキスタンとかモロッコとか。それにインドは私にとって特別過ぎてね…….話し出すと止まらないわ、インドの話は」

どうしてこのツアーに参加したかという話で盛り上がる。私もエチオピアに行くつもりが催行叶わずで、去年地下鉄駅で見たポルトガルのポスターに心奪われたことを思い出して決めたのだという長い長い話をした。
「ミホちゃんこそ意外じゃないの。エチオピアだなんて。ミホちゃんこそヨーロッパっぽいじゃない」
私はヨーロッパの街が似合う女なのだろうか。そうなら嬉しい。
「ミホちゃんはなんていってもまだ若いから。これからまだまだ沢山旅行出来るじゃない。エチオピアでも南米でもどこでも」
次の旅、どこにしよう。帰国したらすぐに航空券とホテルの予約をしたい。次は6月の初めだなぁ。本当は夏真っ盛りに旅をしたいけれどとてもじゃないが手が出せない金額だ。出来るだけ安い時期に沢山旅をする。これが私のモットー。いや、信条なんかじゃなくただお金に余裕がないだけなんだけどね。いつかビジネスクラスに乗ったり、船旅もしてみたい。けれどそんな優雅な旅行が出来るようになったとしても、私のことだからやっぱり串刺し肉の方がフォアグラより美味しいやと思うのだろう。
あ、ファドはいつ始まるのかな。

食事を提供するファドの店は観光客向けで、本格的な店ではお酒を片手に静かにファドに酔いしれるのだそうだが、こうしてお喋りをしつつ食事をする方が断然楽しいに違いない。

そんなことを考えながらオレンジジュースを飲んでいるとギターを抱えた男性が2人現れた。これがギターラ?楽器のことなどまるで分からないけれど、12弦もあるなんてさぞかし難しいんだろうなぁ。あ、片方は普通のクラシックギターかしら。6弦だからそう思っただけだけれど、よく見るとちょっと違うような……。

続いて黒いショールを纏った女性が現れるとお喋りは止まり全員が食事の手を休めた。ほんの一瞬、空気が張り詰めるやいなやギターラはかき鳴らされ、切なくも力強い歌声が響く。