雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<183>
忘れ物
街にサヨナラを告げる前には必ず、ホテルの部屋を引き払うわけだけども、この「忘れ物をしたような気分のまま立ち去る」という切なさに今後慣れることがあるのだろうか。それともいつの間にか感じなくなるのかしら。誰かに話したら共感してもらえるかな、この感覚。
バスルームに干していた洗濯物、日用品、ガイドブックにお土産の赤いランジェリー…….よし、点検終わり。全部スーツケースにしまってある。化粧を直して一服。少し日焼けしちゃったなぁ。頬の高い部分と鼻の頭が少し赤黒い。どうせなら綺麗にムラなく焼ければいいのに。日焼け止めをうっかり忘れてしまったのはまずかった。仕方ない、ファンデーションを少し厚めに塗って誤魔化そう。
さて、出発の時間だ。サヨナラ、キンタ・デ・ソル520号室。ドアの少し手前で大事なものを忘れていることに気が付いた。そう、「マデイラの夜」!サイドテーブルの引き出しを開ける。ああ、よかった。これを忘れたままこの島を発ったら私はずっと後悔するに違いない。この懐かしい海の香りはマデイラの一番の思い出だから。いや、二番かな。一番はカジノ、そして三番は紙吹雪か、はたまたバーで出会ったリカルドか。
エレベーターの前に土田さんがいる。私に気付くとあっ、という表情をした。
私はエルヴァスのポサーダの一件から土田さんと二人きりになるのをなんとなく避けてきた。彼女はジョゼさんに好意以上の感情を抱いていたのではと勘ぐっているから。あの一件以前はジョゼさんをちょくちょくみんなの前で楽しそうにからかっていたし……。ああ、私はなんて下衆なんだ。なにか話し掛けなきゃ、けれどなにを話していいのか分からないし、取り繕うように言葉を発しても聡い彼女は私のいやらしさを見透かすだろう。
無言でエレベーターを待つ。気まずい空気が流れる。ツアーメンバーの誰か、誰でもいいから来てほしいけれど誰も現れない。みんな5階以外の部屋に泊まっていたのかしら。それとももうロビーにいるのかな……と思っていると門田さんが脚を引きずりながらよたよたと歩いてきた。
「どうしました?」
土田さんと私、同時に声が出た。
「さっき、トボガンに着いて行こうと坂を下ってたらひねってしまって」
すごいな、この人は。マラソンが趣味だと言っていたけれどまさかあの急坂を駆け下りただなんて。
「湿布、少し持ってますけどお使いになりますか?」
「すみません、お願いします」
お先に失礼してエレベーターに乗る。門田さんの頭の紙吹雪はとうとう2枚になっていた。ピンクと水色の丸い紙吹雪。いつか読んだオー・ヘンリーの『最後の一葉』を思い出してしまう。いけない、いけない。
ロビーでバスを待っている間、煙草を吸っていると
「クリムトお好きなんですか?」と土田さんが声を掛けてきた。
ウィーンで買った<接吻>柄のライターが目に付いたのだろう。しかし、さっきは言葉を一切交わさなかったのに少し複雑な気持ちだ。
「ええ、好きです」
「私はシーレがクリムトより好きでしてね。作品もいいですけど、シーレってイケメンじゃないですか?」
「私もシーレ大好きです。イケメンですよね。作品もクリムトより好きかも知れません」
夜遊び組の女性も一緒になって画家で誰が一番美男かという話題でしばし盛り上がる。
「若い頃のダリって妖艶よねぇ」
「やっぱりシーレですよ!」
「佐伯祐三ですね、私は」
「佐伯祐三も素敵ね。夭折した画家って美男が多いのかしら?シーレも確か30歳くらいで亡くなったんじゃなかったかしら」
「28歳ですね。スペイン風邪で」
芸術家の名前が自然に出て来るのみならず、誰が一番の美男かと真剣に語り合えるこの素晴らしさよ!ずっとこんな話をしていたい。
「3日間のマデイラ滞在、お楽しみいただけたでしょうか?これからバスは空港に向かい、本土、リスボンへと飛びます。パスポート、お財布、お土産、入れ歯にカツラ、お手元にございますでしょうか?今一度ご確認お願いします」
ダメだ、どうしても笑いをこらえきれそうにないので腕を抓ってみるけれどあの紙吹雪がちらついてしまう。あ、土田さんも気付いているに違いないのにこのいつものセリフはちょっと意地悪だ。
竜舌蘭の群生が見えてきた。
「3日間お世話になったドライバーのゴンサーロさんとお別れです。ありがとうございました。オブリガーダ!」
そういえばゴンサーロさんともガイドのルシアさんとも朝の挨拶をしただけで一度も会話をしていないなぁ。まぁ、普通はそんなものかも知れない。
搭乗まで1時間。ショップを少し眺めてからカフェでお喋りをする。結局欲しいブーツは見つからなかったしまだ口紅も買っていない。けれどマデイラで楽しい思い出がいっぱい出来た。リスボンでも沢山いいことがありますように。まずは今夜、下町で聴くファドが楽しみだ。「宿命」を意味するその音楽は私の心を揺さぶることだろう。