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入院生活記録「救急搬送された日のこと」


人生はいつ何が起こるか分からない、という言葉はなんとなく聞いたことはあったが、最近それを身をもって体感することがあった。

それは今まで特に大きな事故や病気もなく、平穏に生活してきた私が、2週間前に突然の腹部の激痛、救急搬送、緊急手術、入院の末の退院と言う、怒涛の数日間に感じたことだった。


その渦中、ほぼ訳がわからぬまま、初めての出来事が一気に押し寄せ、駆け抜けていくような目まぐるしさだった。
そして今、無事に自宅や職場に戻ることができ、体力的にも心の面もだいぶ落ち着いてきている。

少し時間が経ってしまったが、その出来事や期間について自分の中での整理や備忘録として、少しずつ振り返ってみようと思う。はっきり言って長いです。


5月9日
いつも通り職場に行く。朝起きた時からとくにいつもと変わった様子はなく、電車に乗ってタイムカードを押して制服に着替え、持ち場につく。
ところがその日は、仕事が始まってすぐ、急に下腹部あたりが痛くなってきた。

実は数ヶ月前にも一度仕事中に謎の腹痛が起こっていたのだが、その時はしばらくすると和らいで消失したので、この日も痛みはじめたときはまたすぐに消えるだろう、という風に思っていた。

鈍痛に堪えながら仕事を続けるが、なかなか痛みが治らず、さすがに歩くのもしんどいくらいになってきた。みんなに申し訳ないとは思ったが、これではその後の仕事もできないので他スタッフにお願いし、少しの間のつもりで休憩室のベッドで横になり休ませていただく。

幸運なことにちょうどその日は夜勤研修の人(ほぼ自立直前の方)もいたので夜間スタッフが一人多くいて、その時間は私が抜けてもマイナスシフトではなく、若干甘えられた。普段だったら一人マイナスになるとみんながきつくなるので言いづらかったと思う。
職場の方々も嫌な顔せず無理しないで、と言って見送ってくれる。

横になっていたら少しは良くなるだろうと、休み始めて1時間経つが痛みは変わらなかった。かえって少しずつ酷くなっているような気もする。
職場の方が見かねて早退していいよと言って下さったので、もうここから仕事に戻るのは無理そうなので早退しようとするが、痛みで全く立ち上がれない。そのあとさらに30分休んでみるが徐々に激しくなり、横になっているのも辛くなり、じっとしていることにも耐えられなくなってきた。


このままだと仕事してるみんなに申し訳ないという気持ちと、おそらくこのままじっとしてても良くならんやつだ…という焦りが、ぐるぐる巡って何もできない時間が続いた。
その間じっと冷や汗をかいて悶えつつ、なんとかならないかと思っていたが、いずれにせよ一人では帰ることはおろか、立ち上がることもできない。

しばらく考えた末、もういい加減に何かしら動き出さねばならないと決心。持っていた仕事用の PHSで看護婦さんに連絡した。


「大変申し訳ないんですが、数時間前からお腹が痛くなってしまって、一人で立ち上がることもできない状態でして…。しばらく休んでるんですが、いま痛みが限界に来ているので、ご迷惑でければ救急車を呼んでいただけますでしょうか・・」

そう言うと看護婦さんは落ち着いた声で、「わかった。全然大丈夫だよ!荷物とか持っていくね、どこにある?」
と着々と準備を勧めてくれた。さすが慣れていらっしゃる。完全に私には彼女が女神に見えた。

自分のことで救急車を呼ぶことになったのは、大人になってからは初めてだった。大袈裟にして申し訳ない気持ちだったが、痛みが痛みだっただけに一人ではどうしようもないというのと、救急患者に慣れている?職場環境に甘えた形だった。

その時すでに、時刻は19時をまわっていた。すでに夜間ナースと夜勤スタッフのみの時間になっており、看護面は一人で入居者全フロア全員見てくださっているのに大変ご迷惑だっただろうが、「今もう仕事終わった時間だから大丈夫よ。いま行きますね〜」と焦る様子もなく、本当に心強かった。


今、救急車呼んだからあと数分で来るよ〜と言われた頃には、あまりのお腹の痛みに、大袈裟かもしれないがうっすらと生命の危機すらよぎっていた。こんなふうにあっさりといなくなる人もいるのかもな…とか朧げに思いつつ、実家の家族などの顔が頭に浮かんだ。

そしてこうゆう弱っているとき優しくしてもらった人や経験というのはおそらくその後もずっと覚えていて一生感謝するんだろうな、と思う。袈裟にいえば命の恩人と言うのかもしれない。


程なくして荷物の準備やらバイタル測定やら、看護婦さんや他の階の夜勤さんまでもが手伝って手配してくださり、救急車も数分で到着。運ばれてきた担架に痛みを堪えながらなんとか這い移り、救急車に乗りこんだ。


運ばれる間は、名前や既往の病気や運ばれるまでの経過などを救急隊から質問され、体はしんどいながらも頭ははっきりしてたので声を絞り出すように一つ一つ答えていく。

私は仕事の関係で自分以外の付き添いで救急車に乗ったことが少なくとも3回はあり、この光景や流れ自体は見慣れているのだが、自分が運ばれる側になるのはおそらく初めてだろう。

「自分のせいで大勢の大人を働かせてしまってるな・・こんなことになってもし大したことなかったら少し恥ずかしい」

という冷静な頭もありつつ、自分ではどうしようもないくらいの痛みになっていたので、もう人の手を借りるしかないと割り切り、救急隊員の方に身を任せた。


救急車の中では数名の救急隊の方が対応して下り、バイタル測定や一通りの必要な質疑応答を終えると、救急隊の方が電話をして行き先の病院を探しはじめた。
「近くの病院を探しますね。…〇〇病院ダメでした、次は〇〇だな。」

と次々に確認していき、病院に空きがなければ他をあたるという感じで、数個目にあたった病院に行くことになった。
そこは職場の入居者も何人かお世話になっている病院で、名前は何度も聞いたことがあった。耐え難い痛みが続く中、行き先が決まってとりあえずほっとした。

サイレンを鳴らしながら夜の道路を走る救急車は、自分がそれに乗っていると思うとやはり少し気恥ずかしい気がした。しかしすぐに、そんなこと思ってる場合ではない、もうこの人たちに任せるしかない。とまた思い直すというのを脳内で繰り返しながら、祈るように揺られていた。

そして程なく病院に到着。すぐに病院のベッドに移り、病院着に着替えさせてもらって、なされるがままいくつもの検査や採血・注射が行われた。
コロナの検査や採血や心電図、CTもとった。看護婦さんやお医者さんが変わるがわる来ては、私のお腹を押してどこが痛むか、どんな風に痛むかなど聞いていった。

痛みなどを確かめてもらっている時、一人の看護婦さんが
「あ〜これはマジのやつだわね」
と何気なく放った言葉で、私はいろいろ不安になったりもした。自分の内部で何がどうなっているのかその時点では全く分からなかったが、どうやらこの様子だと、自分が感じている痛みは気のせいではないようだ。

そしてそれらの結果から、下腹部に何かの異常が起こっているということは確実だという情報を告げられた。

色々な検査が一通り終わった後、そこで分かる範囲では、片方の卵巣がかなり腫れていること、通常が2cmくらいのものが8cmくらいになっていて、それが何らかの形で痛みを生じさせているのでは、ということだった。

そして、卵巣という器官のことは産婦人科でなければ詳しく検査できないので、これからまた産婦人科のある別の病院に移りましょう、ということになった。

その説明を受けて、もはや祈りつつ託すような思いしかなかった。わかりましたと言ったものの、それまで産婦人科に行ったことがなく、会社や学校で行ってきた健康診断でも確かに産婦人科系の検査はしたことがなかった気がすると思い、多少の不安は募っていた。

そして再び、担架に移って救急車に乗る。先ほどとは違う救急隊員で、同じ質問や痛みの場所など同様に答えていくうちに、また一つずつ病院を探しながら、最終的に新宿の大きな大学病院に運ばれることになった。

病院に着くと、再び採血やいくつかの検査がある。産婦人科の者です、と最初に女性の先生が挨拶に来た。
産婦人科って女性の先生ばかりなのかな、と少しばかり安堵していたら全くそんなこともなく、何人も若い男性の先生が普通にいて、検査や質問に立ち会ってくださる。
それには最初「まじか」と思ってしまったが、病人である立場でそんな思考は持つべきではない。介護も医療も、こうゆう現場では性別関係なくプロフェッショナルへの敬意を1番に考えよう、と自分には言い聞かせた。


初の産婦人科は色々なことが新鮮で、驚くことも多かった。今まで健康診断で受けたことなかったこっ恥ずかしい感じの検査や質問などもあって、その上で女性の先生の横に普通に男性の先生もいるのは、最初は不慣れゆえの抵抗もあったが、思い返せば自分の職場の介護施設でも男性のスタッフがたくさんいるし、異性が排泄や入浴などの介助に関わることもある。それに抵抗を感じる女性入居者はもはや少数派であることも思ったりして、彼女たちを改めて見習わねばとも思った。

医療や介護の場ではあまり性別の差を意識しないことが大事かもしれない。それ以外の世界では羞恥心があって当たり前な場面かもしれないが、現に先生たちも介護現場の私たちもそんな現場が日常で、普通のことなのである。

羞恥心に配慮することももちろん必要な上で、緊急の場面で女性も男性も同様にその分野のプロフェッショナルであり、産婦人科という女性を対象にしたフィールドで、女性だけでなく男性の先生が普通に働いているのもやはり素晴らしいことだと思えた。

そんなことを考えながら検査をしてもらっているうちに、ものすごく喉が乾いていることに気がついた。
そして何気なく、少しお茶を飲んでもいいですか、と看護婦さんに尋ねた後、衝撃の言葉を耳にする。


看護婦さん「あ、多分しばらく何も飲んじゃいけないと思います。これから手術することになるんで」

私「…しゅ、手術???!!」

私は突然の事実に、一瞬頭が真っ白になった。
まず喉が渇いているのに水が飲めないということ。そして、全く予想だにしていなかった「これから手術」という言葉。

卵巣が腫れているから痛い、というなんとなくの病状は感知していたが、手術しなければならない程の悪いものなのか、そして手術はいつ行われるのか、いつまで水分を摂ることができないのか、一気に色々な疑問が浮かんできて、混乱し、不安になった。

そしてその後、看護婦さんに言われて携帯で家族を呼び、家族が来てから改めてお医者さんからの説明を聞いた。

CTなどの外からの検査でわかる範囲では、卵巣の片方がかなり腫れており、採血の結果でも白血球の数値が異常な値になっていることから、もしかしたらその腫瘍が破裂している可能性が高いこと。もしその場合はその腫瘍の部分を取り除くことが必要で、それは外からの検査だけでは確かめられないので、これから手術をして中をみて確かめてみる必要があるということ。その手術は、大きくお腹を切り開くのではなく、おへその下とプラス1、2箇所に小さめの穴を開けて、そこから行うので、傷も最小限で済むということを淡々と告げられた。

そして、見た感じではその腫瘍は悪性ではなさそうだが、もし悪性であったり、腫瘍のねじれで鬱血していた場合などは卵巣の片方を摘出する可能性もあったり、出血が多い場合の輸血の可能性など、さまざまな場合のリスクもしっかりと教えてもらった。

色々な情報を一気に飲み込むのは大変だったが、手術はどちらにせよやらなければいけないことが分かり、覚悟は決まった。看護婦さんの口走った「手術」という言葉から色々な不安がよぎったが、しっかりお医者さんの説明を聞いたら、その言葉も案外怖いものではなく、この方々に任せておけばきっと大丈夫だと思えたし、ここまできて自分にできることは成功を願いつつも全てを任せるだけだった。

その説明を家族と聞いた時、すでに日付を超えて深夜1時過ぎであった。

駆けつけた家族もコロナ対策のため病室に長くもいられないし、急なことであったため説明後は家に帰り、私は静かに手術の準備を待つ時間になった。

その時も痛み止めは打ってもらっていたけど、寝返りや上体を動かしたり横を向いたりすると痛みが増してしまうので、ずっと真っ直ぐ上を向いたままの姿勢でいた。喉はものすごく渇いているが水も一切飲めない。何もやることがないし、やる気力もない。


しばらく時間が経ってから、枕元に置いてあった携帯電話をここにきて初めて手にとってみた。救急車を呼ぶのを手伝ってくださった職場の先輩からLINEが来ていた。ご心配とお気遣いの優しいメッセージだった。状況も分かってくださっているので、少し落ち着いてから返そうと思った。


先生の説明の時に、手術は全身麻酔をして行うといわれた。その麻酔などの準備を行うのにも時間がかかるらしい。

「全身麻酔」という言葉も聞いたことはあったが、まさか自分がそれをやる時が来るなんて。
というか手術や救急車だって自分が当事者になるなんて思ってもみなかった。病気というもの自体がずっと他人事だと思ってた。

全身麻酔をすると呼吸も自分で行えなくなるので、呼吸器をつけるというのも説明で初めて知った。説明でき聞くことが何もかもが初めてで、自分の体がこれから自分のものではなくなり、全面的にこの医療の力に頼るしかないのだという恐怖や不安はあったが、一方でこの状況にものすごく冷静ではあった。
もう本当に自分がどうにかできることではないので、祈りながら全てをお医者さんの力に任せるしかない。自分に改めて言い聞かせていた。


そんなふうに覚悟が決まった時、もうここから祈る以外にやることはないのだが、この気持ちはなんとなく記しておきたい、そしてもし万が一何があるかも分からないし、今の自分の状況を言葉として残しておきたいと思った。

そして私は携帯を取って、Twitterを開いた。


今日職場で突然腹痛で救急車で運ばれて、病院で検査してこれから手術になった。あまり悪くないといいです。全身麻酔も怖いし不安だけど、どうか成功しますように。


これだけ書いて、携帯を置いて、目を閉じた。特定の誰かにLINEして状況を説明する気力はなかったが、本能的にtwitterにだけは残しておきかったのだろう。こんな私は立派なツイ廃かもしれない。

ひどく疲れているのに色々な感情が押し寄せて眠れなかった。朝方の手術の時間まであまり動かないで静かに待つことにした。

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