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灰色の階段と黒い死神 またはいかにしてジョーは天国への階段を下ったか



ある奇妙な夜の話をしよう。昔の話だ。君が生まれるよりももっとずっと前。この世の全ての金をかき集めたような、絢爛豪華な祖父の葬儀が終わってすぐのこと。

幼かった私は棺の中に見た祖父の灰色の肌に恐れおののいて、布団を被ったまま、何日も陽の光を浴びることなく震えていた。父は連日何十人もの男たちとこれからの「家業」について話し込んでいて、私の事など頭から忘れてしまったようだった。
「家業」は私から友だちと、今までの父と母の命とを奪い、孤独と、灰色にくすんだ大きな屋敷を与えた。

屋敷の忌まわしさを助長するのは、その屋敷の中心に鎮座する、巨大な大理石の階段だった。
大人一人寝転べるほどの幅を持ち、角は刃物のように鋭く尖っている。使用人によって執拗に磨かれ抜いた岩肌は、怪しげにけぶるような灰と黒の階調を見せ、いつでも登る私を沈んだ気持ちにさせた。
祖父がその足を折り、彼の死の間接的な原因を作ったのもこの階段だった。何日も屋敷に引きこもり、この階段を昇り降りして生活するうちに、いつしか私は、この階段は呪われていると信じるようになっていた。

そして、その夜が来た。
その夜はとても寒かった。眠れなかった私は厚いローブを羽織って、居間の暖炉に残った熾火を眺めながら本のページを捲っていた。
ちょうど本の中の主人公が死神を名乗る男にそそのかされ、契約を結んだ時、カツン、と硬く鋭い音が耳に届いた。

何かが落ちた?
いや違う、これは靴音だ。しかも、あの「階段」を踏む音だ。私は何故か確信した。
そして、その確信は不吉を意味した。父が、共に話合っていた他の大人たちを差し置いて1人で何処かへ行く意味もなく、それは他の大人たちにも言えることだった。2人しかいない使用人はとうに寝静まっている。ならばこの音は不吉以外の何を意味する?

私は息を潜めて、静かに居間の扉を開いた。

絨毯を踏む微かな音さえ気を揉みながら、明かりも持たずに廊下を歩くと、やがて暗がりの中にぼんやりと大理石の灰色が浮き上がっているのが、暗さに慣れた視界の端に見えてくる。
その階段に、黒。
そこだけぽっかりと穴が空いてしまったような、暗闇よりもなお暗い影が、人のかたちをしている。その人型の影があろうことか、あの階段をゆっくりゆっくりと降りてきている。そんな光景を私の目が捉えた。


「おい」

私が恐怖と驚きで動けずにいると、影が口をきいた。同時に、何かぎらりとひかるものがこちらに向いた。目だ。真っ黒な影の中に、怪しくひかる目だけが浮かんでいる。

「お前はジョーか」

不気味な低音が響く。私はやっとのことでうなずいた。脇につめたい汗が流れた。

「あなたは、誰ですか。どこから来たんですか」
私は震える声で問うたが、影は答えなかった。
ただじっと獣がえものを狩るときのような目つきで、私を見つめていた。
いつまでそうしていただろう。永遠にも感じられる沈黙ののち、影はもう一度口を開いた。

「ジョー、この階段を登るな。いいな」
「え?」
「俺は死神だ。言うことを聞かなければお前も地獄へ連れて行くぞ」

影、もとい死神はそう言うと子供を脅かすように両手を上にかざし、ゆっくりと階段を三段ほど降りて私の方へ近づいてきた。恐ろしさに後ずさると、死神は浮き上がった目を三日月のようにしならせた。笑っている?

「死神も笑うんですか?」
「笑うさ。人みたいにバカな笑い方はせんがね」
「じゃあ・・・一つ聞いてもいいですか」
「一つだけか」
「はい」
「なら聞こう」

「僕がいつ死ぬかわかりますか」

そう問うと、三日月がさらに大きくしなった。そんなにおかしいのか。しかしその問いは、祖父の死に顔に慄いた私にとって、とてつもなく大きなものだったのだ。「家業」は人の死を糧にその力を増していく。幼い私の周りには死の匂いが充満していた。私は、その影と匂いにいつも怯えていた。

「知らんな」

そんな私の心中をよそに、死神はあっけらかんとした声で答えた。

「・・・死神なのに?」

「知らん。かのオイディプス王も言っておられただろう。’’ああ、知っているとはなんと恐ろしいことか!’’だ。知りたくとも、知らない方がいいこともある」
「でも、それでも」
「ジョー」

口を開きかけると、打って変わって冷たい低音がそれを制した。三日月のようだった目もぎらぎらとひかる獣の目に戻っている。

「質問は一つきりだったはずだ、階段から離れ、居間のカウチに横たわれ、ジョー。お前がいつ死ぬのかは誰にも、死神にも分からない」

「死神にも、分からない?」

「そうだ。ただ一つ言えるのは、みんないつか死ぬという事だけだ。子供だろうと、大人だろうと、ギャングの親玉だろうと。それだけで、生きるには十分だ。」

そう言って死神は踵を返し、ゆっくりゆっくりと階段を登って行った。
いつか必ず死ぬ。誰もが。今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。今こうしている次の瞬間に全てが闇の中かもしれない。それは誰にもわからない。死神にさえも。誰もが、何も知らないままに生きている。それは、とても素晴らしいことなのか、とても恐ろしいことなのか。

「そうだ、ジョー」

ぼんやりと考えにふけっていると、影がくるりと反転した。目線がばちりと合う。

「お前がいつ死ぬかは知らんが、今日ではない。それだけは俺が保証しよう」

その言葉を最後に、人の形をした影、真っ黒な死神は二度と口をきかずに、灰色の階段をゆっくりと登っていった。私はその後ろ姿を時を忘れて見つめていた。

次の朝、あの階段を見ると、赤黒い水滴の模様が階段の中腹から頂上まで点々と続いていた。

父たちの部屋の扉を開くと、そこには鮮血の海と、赤に染まった父と大人たちの体があった。
そして鮮やかな赤の中に、事切れた、真っ黒な死神が横たわっていた。私に続いて部屋に入った使用人たちが、口々に「殺し屋」と言っているのを聞く。
’’ああ、知っているとはなんと恐ろしいことか!’’死神の声が脳裏に浮かんだ。私は何も知らぬ子供でしかなく、知らぬことによって生き延びたのだ。

これがその奇妙な夜のあらましだ。私はその後「家業」を捨て、人の死を避け続けて生きてきた。しかしどんなに歳を重ねても、あの灰色の階段と、あの夜に見た死神の三日月のようにしなった光る瞳を、忘れることはできない。


                             了


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