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おすすめハラスメント・本棚編

 こんにちは
 普段どんなものをお読みになっているかわかりませんが…私がおすすめしたい本といったらもう今は絶対にこれなんです。

買ったときからカバーがなかった

 こちらです。題名だけでもお聞きになったことがあるかもしれません。古代インドの戯曲なのですが、これがあまりにも有名で、他の作品がそれほど知られていないという現状があるくらいに有名な作品です。
 これはだいたい五世紀くらいのインドに生きたカーリダーサという詩人が書いたもので、その頃のインド文学と言ったら宮廷に仕える詩人たちが神話や叙事詩(マハーバーラタやラーマーヤナ)をもとにして作ったものがあふれているんです。日本語でアクセスできるものが少ないのが難点ですが、この作品に関しては欧州で大流行りした(ゲーテが影響を受けたり、音楽作品になったりしています)ことがきっかけで、古くから翻訳がなされてきました。
 そのほかインド文学の概観を話し始めたらキリがなくなってしまいますし、もしかしたらもうご存じのこともあるかもしれないのでここまでにしますが、この戯曲の素晴らしいところはずばり、翻訳だと思っています。

 あっ、翻訳について語る前に、ストーリーは今ここで全部説明できるくらい単純なんです。仙人(苦行をしながら野に暮らす聖職者のような存在)を養父として暮らしていた美しい娘シャクンタラーが王様に見初められて結婚、なんやかんやあって呪いをかけられて王様がシャクンタラーを忘れてしまうけど思い出の指輪の力で記憶を取り戻して大団円、それだけです。あらすじだけで言ったらまあどこの国の昔話にもありそうな感じですよね。

 話を翻訳に戻すと、これを翻訳したのは辻直四郎という方で、超有名なインド学者・言語学者の方です。この人が作ったサンスクリット語の文法書を、私も学習用に使っています。
 そもそもこういう戯曲は王族などの貴人が見るものなので、訳すときも格調高い雰囲気が必要になり、辻先生は韻を踏んだ擬古文を翻訳の文体として採用していらっしゃいます。それが黙読するときも音読するときも、すなわち目にも耳にも心地よい言葉たちとなっていて、これがもう大変素晴らしいです。ちょっと本文を読んでみますと、

憂かりける 悩みのたねの 恋はいま わが憂さはろう 玉箒。黒雲こむる 暑き日も 夏すぎゆかば 人の世に 恵みの雨を 降らしこそすれ。

『シャクンタラー姫』3-14

これは王様が物陰に隠れてシャクンタラーと友達との恋バナを聞いているシーンです。シャクンタラーが王様への恋心を友達に打ち明け、それを王様が聞いてしまい、やったーこの子オレのこと好きじゃん!ってことは両想いじゃん!と喜ぶ気持ちをこんなふうに表現しています。いかにも王朝物語という感じがしていいですよね。言い忘れましたがインドの戯曲には普通のセリフの合間合間に韻文で歌を歌うところがあるので、そこの和訳を抜粋してきています。全部が全部こんなんじゃないので思っているより読みやすいと思います。

創造の主 かつて果たせし すべての業を 思いうかべて 美しきもの ひとつに集め こころの中より 生みいだせしか、底し知られぬ 神の力と 姫の姿を 想いあわさば 美の女神 ここに再び 創られしと見ゆ。

『シャクンタラー姫』2-10

かの姫の 欠くるとこなき あて姿 たとえて言わば 口づけの 汚れにそまぬ うずの花、爪先の 傷さえ知らぬ 若木の芽、みずみずし まだ身につけぬ あこや珠、まあたらし 味もためさぬ 蜂の蜜、善き業の まったき功徳、あやなしや われはえ知らず この世にて 誰をか夫(つま)に 選ばんとする。

『シャクンタラー姫』2-11

 ここはさっきの場面の少し前、恋に落ちた王様が、シャクンタラーがいかに美しいか友達に熱弁するシーンです。美の女神や花、若木の芽や蜂蜜にも例えて、彼女の美しさをこれでもかとごり押しに表現してきています。このしつこさも一つの魅力だと思っています。ちなみにカーリダーサより後の文学はだんだんこのくだくだしさがエスカレートする傾向にあります。

 創作でもこんなふうにきれいな言葉を紡ぐのは難しいのに、翻訳という制約のある中でこれほど情感たっぷりに読者に訴えかける美文を紡ぐ辻先生、やはり只者ではないと思ってしまいます。読み始めて、気づけば読者はインドの苦行林の中、花も恥じらう美しいシャクンタラーが恋に悩んでいるのを見る…。

 でも、この作品はあんまり安易に人におすすめできないんですよ。なんせ文体がこんなですから、面白いよりも退屈が勝ってしまうかもしれませんし、登場人物の名前が長いカタカナのため慣れないとつらいですし、ストーリーを楽しむものではないのでそれを面白いと思わない人もいるかもしれません。こういう機会がなければ、こんなに語ることもないでしょう。

 いかにも、なおすすめハラスメントでした。気になったらどうぞ読んでみてください。

 最後に、最近映画化されたみたいなので予告編も貼っておきます。本編は観たことがありませんが、なんとなく雰囲気はこんな感じだと思います。


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