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『コンテンポラリー自分』を求める動き
東京を経由して、実家のある千葉に来ております。
東京方面に来る際にはいつも高速バスを使っているのですが、3時間ほど揺られているとなぜか思考が働くのですね。
ふらふらっと考えたいテーマが浮かび上がってきて、勝手に頭の中で文章の執筆がはじまり、思考の整理が進みます。
なので、高速バスに揺られるとなぜか文章を書きたくなるのです。アウトプット欲求が増してくるのですね。
今回はなんとなく、コンテンポラリーダンスについて思考したいなと思いました。
ちょいちょい書いているように、最近はコンテンポラリーダンスを学んでいて、楽しく自分の中で探究をしています。
感覚的に自分自身がコンテンポラリーダンスのどのようなところに魅力や楽しさを感じ、興味を深めたいと思っているのかはなんとなく浮かんでいるのですが、具体的な言語化は難しいなと思っています。
だから、少しその辺りのことについて言葉にしておきたいなと思ったのですね。書くことで明確になることもあるので。
支離滅裂になる予感もしますが、なるべく頭の中をまとめてみようと思います。
・ そもそもコンテンポラリーとは何なのか?
そもそもコンテンポラリーダンスってなんなのでしょう。
コンテンポラリー・ダンス(英: contemporary dance)とは、文字通りには「今この時代の/当代の/現代の舞踊」という意味であるが、実際の語としては、フランス語の "danse contemporaine(ダンス・コンタンポレーヌ)" の意訳語である。
Wikipediaにはこのようにあります。
コンテンポラリーという言葉は "現代的な" と訳されることがありますが、つまるところ『現代的なダンス』『現代に則したダンス』といったところでしょうか。
この言葉が使われるようになった背景や文脈を知れば、もっと厳密な定義がありそうですが、ひとまずは言葉の意味のまま受け取ってみようと思います。
過去にバレエやモダンダンス、ポスト・モダンダンスなどの舞踊芸術を経験してきたダンサーのうち、クラシック・ダンスの伝統を解体し、創造的なダンスを目指しているダンサーやダンス・カンパニーに、コンテンポラリー・ダンスを標榜する傾向が見られる。
ここにあるようにコンテンポラリーダンスはクラシックバレエなどと対比され、語られるものなのだと思います。
『現代的な』という言葉を使うということは、その背景には『過去』が存在するわけで、それはクラシック(古典的なもの)からの派生ということですよね。
従来(長年)続いてきた形のものに疑問を感じ、ある種のカウンターカルチャー的に発展した表現方法がコンテンポラリー表現なのです。
・ 過去を否定し続けてきたアートの世界
たとえば絵画の世界。
かつて、モネやセザンヌなどの印象派はコンテンポラリーだったのだと想像できます。
印象派が認められ始めてきた頃、従来の貴族階級向けの神話などを題材にした写実的なスタイルから、より日常的で質素で、かつ現実とはほど遠いほどの抽象度で対象を描くスタイルへとトレンドは変化していきました。
そこには絵画というものの形に対しての『もっとこうあるべきなのではないか?』という疑問や従来のスタイルに対する憤りがあったのだと考えられます。
それはピカソのキュビズムもそうだったかも知れないし、ダリのシュルレアリスムもそうだったかも知れないし、アンディーウォーホルのポップアートもそうだったのかも知れません。
もちろんネガティブな動機がすべてではなく、好奇心の積み重ねによる発展もあることでしょう。
どちらにしても、『現代的な』という時間軸が存在している以上、コンテンポラリー表現には従来のものとの比較から生まれた社会性が必ずくっついているものとなります。
過去のものを否定し(否定の度合いはあれ)、現代により適応したスタイルを模索する運動、それがコンテンポラリーなのだと考えられます。
・ 現代のコンテンポラリーダンスの『現代観』
なんとなくですが、コンテンポラリーという言葉の意味をキャッチすることができたような気がします。それでは今現在におけるコンテンポラリーとは、どいういものを指すのでしょうか。
この部分がとても重要なのでしょう。
そして、その『現代観』には時代背景から受けた大きな流れがあるものの、受ける人により異なるものとなり、どのような文脈から生まれたものなのかなどによっても、その結果が異なるでしょう。
たとえば、バレエ出身の人にとっては、クラシックバレエやモダンバレエを解体する運動としてのコンテンポラリーダンスがあるだろうし、ヒップホップやジャズダンスといったものに触れてきた人には、その人なりのコンテンポラリーダンスがあるはずです。
(なんとなく聞いた限りだと、コンテンポラリーダンスというと前者のことを指すことがほとんどのようですが)
はたまた、これはわたし自身がそうなのですが、ダンスをまったくやって来なかった人間が、自分自身が感じている表現観を解体していくという流れもあるのでしょう。
この場合はダンスを経由していないので、正確にはコンテンポラリーダンスとは呼べないのかも知れません。解体すべきクラシックを知らないので。
でも、自己表現や身体表現という、もっと原始的な意味での解釈であれば、ダンスを経験したことがない人にとっても、意味の解体は可能です。
それはもしかしたら『コンテンポラリー自己表現』だったり、もっといえば『コンテンポラリー自分』だったりするのかもしれません。
・ 自己主張は本当に必要か?
自分という存在をどのように表現するのか?というテーマは現代にとっては、誰にだって考えうるものです。
こうやってSNSやネット上に誰でも気軽に発信できるようになったのもあるし、自己やアイデンティティというものについて考える機会が数十年前と比べて圧倒的に増えているのは明白です。
従来、当たり前のようにそこに存在していた自分という存在の表現方法に、人々は疑問を感じ、悩み苦しみ模索している時代なのかもしれません。
そういう悩みの発露として、コンテンポラリーダンスというものが一つのきっかけになっている側面があるような気がしています。
世代にもよると思いますが、わたしたちは仕事や普段の生活の中で、自分という存在を適度に主張しなければならないような空気感のもとに育ってきました。
しかし、その結果、うまく行った人もいれば、そうでない人もいる。
これはもしかして、誰でも適応可能なベーシックなノウハウや基礎能力なのではなく、単なる個性の一つなのではないのか?得意不得意の問題で、適応できない人もいるのではないか?という疑問がぐるぐると巡っている人も少なくないのではないでしょうか。
そういうことを感じて、自己表現や自己存在というものの意味を見直し、解体し、再構築したいという内なる欲求がある人は多いのかもしれません(自覚しているかは置いておいて)。
わたし自身もそんなことを感じています。
・ 表現する理由をあらためて考えてみる。
自分を主張する必要は一体どこにあるのだろうか?なぜ、必要以上に自分の能力を上げる必要があるのだろうか?なぜ、よりよく見せる必要があるのだろうか?そこに終わりはあるのだろうか?そんなことを常日頃の疑問として突きつけられるのです。
しかも、厄介なことに、頭ではそのように疑問を感じ、そうではない表現をしたいと願っているのに、身体は思うように動かないというジレンマを抱えます。
たとえば、SNS。
SNSでのフォロワー合戦や映え合戦の行き着く先がディストピアなことがわかっていても、そこから抜け出すことは容易ではありません。
友達が素敵でキレイな写真を投稿していたら、ついつい羨ましくなって、同じような投稿をしてしまうかもしれません。
ついついおしゃれなカフェに行って、おしゃれなホテルのラウンジに行って、おしゃれなお洋服を着て、それを写真に撮って投稿したくなるかもしれません。
やらない方が精神衛生的にもいい...とわかっていても、なかなか抜け出せないのが、悲しいかな人間なのです。
・『コンテンポラリー自分』を構築する運動
そんなこんなで揺れ動いている現代の自己表現事情に対して、彗星のように現れたのがコンテンポラリーダンスなのです(言い過ぎでしょうか?)。
そこには、なぜだかわからないけれど、自分が理想としている(気がする)、なにか新しい表現の価値観やスタイルがあることをおぼろげながら感じるのです。
それは先人たち(プロのダンサーさんたち)が長い年月を積み重ねて試行錯誤してきた『現代にふさわしい表現とはなにか?』という問いへの現時点での回答が、わたし個人が生きることに感じる疑問への回答と奇しくも重なり合うような気がするのですね。
なので、正確にはコンテンポラリーダンスを学ぶことで、そこで積み重ねられてきた先人たちの価値観や思想や技術が『コンテンポラリー自分』を構築するうえで、とても有効に感じるから、そこから何かヒントのようなものが得られそうだから、コンテンポラリーダンスを(わたしの場合は)学ぶのです。
・ わたしの解体と再構築
整理してみます。もともとダンスを経験してきた人は従来のダンスというものに疑問を持ち、アップデートしていこうと試みます。それがコンテンポラリーダンスへと発展していきます。
それは従来のダンスの形を解体し、離れ、再構築したものとなります(守破離ですね)。
そこで生まれた、コンテンポラリーダンスに対する思想や価値観は、抽象化していくとダンスの枠に収まることなく、自己表現や生きることについて転用できる可能性が大いに含まれています。
現代において、自己表現や自身のアイデンティティの確立の仕方について、なんとなく疑問を感じている人たちが一定数います。そして、その表現のあり方を模索しています。
その人たちは、コンテンポラリーダンスの考え方やその手法にシンパシーを感じ、意識的にも無意識的にもその思想をキャッチし、コンテンポラリーダンスに興味を持ちます。そして、その可能性や新しい価値観にワクワクし、なにか自分に取り入れたいと探求しているのではないか、というお話です。
従来のダンスを経験したことのないコンテンポラリーダンサーは、もうこの時点でダンサーではなく、コンテンポラリーダンスは『コンテンポラリー自分』へと変化しています。
その『コンテンポラリー自分』という行為やその探究のプロセスこそが、新しい感覚のパフォーミングアーツ(身体を使った表現)へとスライドしていっているのではないでしょうか。
もしくは、それこそが本来的な『踊る』という行為なのではと、プロのコンテンポラリーダンサーの方々も感じているのではないでしょうか。
・ 哲学や人文学のように
以前、noteで『わたしという意味を解放する運動』という内容を書きました。
意味の解体と再構築はコンテンポラリーにおける大切な構成要素だと考えます。
それがダンスの範疇に収まることなく、どんどん生き方という大きなものへと広がっていっていると感じます。
ダンスやアートを中心に観れば、それは新しい表現方法の探究や新しいスタイルの作品創造につながりますが、生き方という広い視点、もしくはダンスやアートをこれまでやっていなかった人間を起点にして観れば、それは自己の解体、そして再構築という生まれ変わり、と解釈することもできます。
解体と再構築を繰り返すことで、どこに向かいたいのかは人それぞれの文脈によって異なるとは思いますが、それがダンスであろうが何であろうが、意識的になっていることが大切なのでしょう。
無意識に無自覚的にこの世界を漂っていると、SNSなどの実態が存在しない大衆的な情報に絡め取られてしまう恐れがある現代において、近ごろ哲学や人文学が見直されているように、コンテンポラリーダンスを含む、意味の再構築を内包しているアート活動に触れることはとても意味のあることだと考えられます。
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