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さよならグレーテル | 短編小説

 身じろぎする気配を感じて、僕は読んでいた本から顔を上げた。
 天蓋付きのベッドから覗く部分はそう多くない。遮る布を無遠慮に捲ると、案の定覚醒した様子の彼女の姿があった。覚醒した、といっても、乱れた髪の隙間から見える瞳は未だ夢現のようで、ぼんやりと頼りなく左右に揺れている。数秒経って漸く僕の姿を認識したらしく、やはりぼんやりとした、掠れた声で彼女は呟いた。
「……あれえ」
「いかにも寝ぼけてるって顔だな」
 すかさず声をかけてやると、やっと現実と理解したらしい。大きな目をぱちぱちと瞬いた。
「おはよ……じゃ、ないよね。外、まっくらだし」
「現在午前一時をまわったところでありマス」
「うわあ、変な時間に起きちゃった。というか、寝た記憶がないんだけど。私、またやっちゃった?」
 髪を整え、ゆるく三つ編みにしながら彼女が問う。
「そ。いい加減にしろよマジで」
 軽くおでこを突いてやると、いたい、と文句を言う。不満げに突かれた場所を撫でさする彼女の、その普段通りの様子に、知らず安堵の息が漏れる。
「こんな真冬に脱水症状で死にかけるってなんなの」
 さいしょに彼女が床の上に突っ伏して倒れているのを見つけたときは文字通りに血の気が引いた。本を読んだりとか、編み物をしたりだとか、何かに没頭すると食う寝る飲むといった本能的な欲求がするりと抜け落ちてしまう性質らしい。しばらくして起きた彼女が、あなたの方がよっぽど病気みたいな顔してるわよ、だなんてけろっとした態度で言うもんだから、僕はそのとき彼女と生まれて初めての喧嘩をした。以来たびたびこういうことがあるので、最近では僕の方も慣れつつある。実に遺憾だった。
「うーん、私って喉あんまり渇かないんだよねえ」
 そして本人はいたって呑気だ。気づいていないだけで渇きはしているんだよというツッコミは、幾度となくしてきたので今更言わない。
「生存本能とかねえの」
「どうだろ。……昔はちゃんと、生きたかったような気がするけど」
 こてん、とゆっくり首をかしげて彼女は苦笑した。
「いまはもうわかんないや。……ごめんね」
 ごめん。何に対する謝罪だろうか。
「……とりあえず、飲んどけよ」
 そろそろ目覚めるだろうと踏んで、あらかじめ用意してあったホットミルクを彼女に差し出す。すこし温くなってはいるが、弱った胃にはそれぐらいの方がかえっていいだろう。彼女はマグカップを受け取ると、直ぐには口をつけず、暖をとるように両の掌でカップを包んだ。ほんの少し垂らしたクローバーの蜂蜜が、揺れる液面に合わせて仄かに香る。
 甘いものが大好きな彼女は、その匂いに気づいて、幸せそうにふわりと笑った。
 絆されてるな、と思う。

***

 ベッドの上で、彼女がこれ見よがしに寝返りを打った。
「眠れないわ」
「そりゃあんだけ寝ればな。でもちょっとでいいから寝とけ。あんまり生活リズム崩すと、また体壊すぞ」
 前髪をくしゃりと撫でてやると、やめてよぐしゃぐしゃになるじゃないと言いながらどこか嬉しそうな顔をする。こういうところはやっと懐いてくれた野良猫みたいで、少し面白い。
 俯せになり肘をつくような格好で、彼女は珍しく我儘を言った。
「本読んでよ。そしたら寝れるから」
「なんで僕が」
「だって、本持ってるじゃない」
 言われて僕は、膝の上に置いていた文庫本に目を落とす。
 そのとき僕が読んでいたのはある日突然男が虫になってしまう話だった。僕の脳裏にうねうねと動く虫が想起される。その太った大きな虫は、バランスを崩して横に倒れてしまった。グロテスクな黒い腹が、もがき苦しむように醜く蠢く。
「……寝る前に読むもんじゃねえぞ」
「そうなの? じゃ、なんでもいいわ。覚えてる話をして」
 意外にもあっさりと妥協してきた。訝しげな視線を送っていると、
「内容なんてなんでもいいの。声、聴いていたい」
 なんて台詞が返ってくる。
 とんだ殺し文句だ。
「……童話ぐらいならたぶん覚えてるけど。何がいい?」
「あ、じゃあ私、あれ聞きたい。ヘンゼルとグレーテル」
「なんでまた」
「あんまりはっきり覚えてないの。昔よく読んでもらった記憶はあるんだけど。確か、幼いきょうだいが、森に迷い込むお話よね? あってる?」
「あってる」
「それで、青い鳥を探しにいって……」
「待て。そりゃ別の話だろ」
「あれ? ちがうっけ」
「あっちの兄妹はチルチルとミチル。こっちの兄妹は、継母に騙されて森に置き去りにされるんだ」
 ストーリーを思い出しながら、僕は彼女に語っていく。
「そして森の奥深くで、おかしでできた家を見つける」
「おかし!」
 彼女の瞳がパッと輝いた。だがそれも直ぐに曇る。
「でも罠なんでしょう? それ」
「お前、変なところで現実的だよな……。そうだよ。人喰いの魔女が、兄妹を誘い込むためのものなんだ」
 ひとくい、と彼女は繰り返した。
「兄妹はまんまと罠にかかって、おかしの家に入り、家を食べ始める。そして魔女に捕らえられてしまう。妹のグレーテルは、小間使いとして酷くこき使われることになる。兄のヘンゼルは食糧だ。魔女は彼を牢屋に閉じ込め、たくさん食べさせて肥えさせ、それから食べてしまおうと企んだ」
 彼女はじっと僕の目を見て話を聞いている。大きな瞳から、感情は読み取れない。
「このままでは食べられてしまう。兄妹は考えた。人喰いの魔女は目が見えなかった。だからヘンゼルが肥えたかどうかは腕を握って確認するんだが、ヘンゼルは牢屋の隅に落ちていた人骨を魔女に握らせて、自分が肥えていく事実を隠した。それでしばらく時間を稼いだんだ。その間にグレーテルは、魔女に命じられた仕事をしながら隙を伺い、最終的には魔女を突き飛ばして、 竈で焼き殺す」
「……殺されちゃったの?」
 しばらく黙って聞いていた彼女が口を挟んだ。
「なんで?」
「なんでってそりゃ、そういう話だからとしか」
「だって勝手にお家を食べたそのきょうだいが悪いんじゃない。もっと言えばそんな小さい子を捨てちゃった親が悪いのだけれど。違う?」
「正論だと思うけど。なんでそうムキになってんだよ」
 拗ねたこどものような口調だった。突然機嫌が悪化した理由がわからず、つられて僕も少し苛つく。
 目を伏せ、ぽつり、と呟くように彼女が言った。
「食べるのって、悪いことなの?」
 純粋に疑問に思っているのがわかるような表情だった。それは予想外の言葉で、僕は少し面食らう。
「食べられるのは嫌だろ」
 誰だって、と続けようとした言葉は全部言うことができなかった。彼女がこんなことを言うからだ。
「食べられてもいいんだけどなあ、私は」
 確かに本心からそう言っていた。
 おだやかな声と表情が、あまりにも内容にミスマッチだった。綺麗な微笑みにこみ上げてくる、焦燥感にも似た、なにか。
 知らず僕は、唾を飲み込む。
「……あいにく、僕、カニバリズム願望はないんだけど」
 変な空気を払拭するように、努めて平静を装って、言う。変に喉が渇いていた。彼女の方はまさしく普段通りだ――少なくとも僕には、そう見える。
「あはは、わかってるよ」
 とても平和に笑って言った。
 わかってる、わかってる。彼女はたびたびその言葉を口にする。こどもをあやすように、酷く温く、甘美な響きで。
「わかってる」
 わかってる。
 ――本当に?
***
 夢を見る。
 僕は虫になって彼女を襲っている。
 妙な形をした僕の舌が、彼女の柔肌を削り取る。ざり、ざり。嫌な音がする。やめろ、と声にならない叫びをあげる。でもそれは間違いなく僕の口から鳴っている。彼女はぴくりとも動かない。彼女は眠っている。死んだように、眠っている。
 誰かが僕の名前を呼んだ。
 はっと目を覚ますと、彼女が心配そうな顔をして覗き込んでいた。至近距離で目が合って、気まずそうに目を逸らす。
「…… 魘されてた」
 そう言う彼女自身も少し、顔色が悪かった。伏せられた睫毛が微かに震える。その様子は酷く頼りなげで――僕は少し、焦っている。
 極めつけにふわりと鼻腔をくすぐる、甘い香り。
 目の前の獲物に、僕の捕食者としての本能が疼く。叫ぶ。歯を立てろ。喰いちぎれ。骨の髄まで舐めとって、欠片も残さず飲み込んでしまえ。
 凶悪な感情が僕を襲ってくる。吐き気がする。気持ちが悪い。苦しい。くるしい。
 ガンガンと響く頭の痛みを引き裂くように、彼女の清とした声が届いた。
「いいよ」
 抱っこをせがむ幼子のような格好で、その両腕を僕へと突き出す。
「食べてよ」
 まるで諭すような言い方だった。
 ある意味では、懇願にも似ていた。
 彼女の白い腕をとる。骨ほどには細くないけど、少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。あまりにも無力で――無防備だ。何故神は彼女に鋭い棘を与えなかったのだろう。硬い鱗を与えなかったのだろう。
 唇を寄せる。控えめな弾力が、肌に触れる。
 誘われるままに、歯を立てた。
 皮膚が裂ける。その痛みに、彼女は微かに眉を寄せる。だが抵抗はしない。真っ赤な血が、重力のままにだらりと伝っていく。

 あんなに自信満々に「食べて」だなんて言うもんだから甘いのかと思ったら、血はちゃんと、錆びた鉄の味がした。
 生きている、味がした。

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お題「本」で書いた小説です。テーマはグロくないカニバリズム。

※ほかのサイトにも載っけてます。

サポート……お金もらえるの……ひええ って感じなんですがもしサポートしたい方がいらっしゃればとてもありがたく思います👼 貯まったら同人誌とか自費出版とか、本として形にすることを考えようかと思います。