鏡の中

  1986年3月。ロンドン。
<空きあり>
 やっと見つけた。
ヴィクトリア駅の裏通りに並ぶホステルを端から一軒ずつ訪ねてきて、どこも満室だったが、これで今夜の寝場所は確保できた。巨大なショルダーバッグを肩にかけたわたしは、ホステルのドアを開けた。
 暗い。
 中に足を踏み入れながら目を凝らした。
「こんにちは」
 男の声がした。見ると、玄関ホールの隅に古びた木製の机が置かれており、その向こうに若い男が座っている。
「こんにちは。2泊したいんだけど」
「いいよ」
 促されるままに宿泊者名簿に名前を書いていると、男は立ち上がって机のこちら側へ出てきた。わたしは適当な住所を書き、バッグを担いだ。そして階段に向かった男のあとをついて歩きだした。
 天井が高く、目の前に延びる階段は長い。
「2階は男性用のフロアで、3階が女性専用になってるんだ」男は階段をのぼりながら説明した。
 ショルダーバッグのストラップが肩に食い込む。足がどんどん重くなってくる。
 やっと3階にたどり着くと、男は正面のドアを開いた。
 目の前が突然明るくなった。
 大きな窓を背にしてそびえ立つ大柄な黒人女性の姿が浮かび上がった。豊かな白髪がウェーヴを描きながら腰まで伸びたその女性は、両手を広げてわたしたちを見下ろしている。
 わたしはリオデジャネイロの巨大なキリスト像を思いだした。
 彼女はこの迷える羊を救ってくれるのだろうか。信じるものを持たずに異国をふらふらさまよい歩いているこのわたしを。
「目がチカチカするのよ」と、彼女は受付の男に言いながら、広げていた両手を上へ伸ばした。天井のランプから電球を取り外そうとしているようだ。彼女は椅子の上に立っている。
「点滅するの?」と男は尋ねた。
「目がチカチカするのよ」女は椅子の上に立ったまま繰り返す。
 部屋にはベッドが5台置かれていた。ドアを入って右手に2台、左に3台。黒人女性は左右に据えられたベッドの間、つまり部屋の中央に椅子を置いてその上に立っており、右手前のベッドには若いカップルが座ってわたしたちを気に留めるふうもなく抱き合っている。
 3階は女性専用の部屋のはずなのに、あの男もここに泊まってるのかな。
 わたしはちらと不快に感じたが、疲れすぎていて、男が同じ部屋にいようがいまいが、どうでもいいような気もした。左側の一番手前がわたしのベッドだと受付に教わり、ジャケットだけを脱いで服のままベッドに潜り込んだ。

 誰かがわたしの右足をつかんで引っ張っている。わたしを引きずりおろそうとしている。
 やめて! 放して!
 やっと気持ちよく飛べるようになったのに、誰が邪魔してるの?
 わたしは右足を蹴りだすように何度も振って何者かの手を振りほどこうとしたが、その手は頑としてわたしを自由にしない。

 目が覚めると、右足が沈んでいた。
 わたしは上体を起こし、かけ布団をめくって足を見た。
 薄いシーツを透かしてベッドのスプリングが見える。詰め物が歳月とともに磨り減って、スプリングがむきだしになったのだろう。押さえつけるものをなくしたスプリングは自由気ままに跳ねており、わたしの足はそんなスプリングの間に挟まれていた。さいわいスプリングとの間にシーツが1枚あるおかげで、怪我はしていないようだ。
 右足を助けだしていると、背後で声がした。
「ハンゲル持ってる?」
 振り返ると、さっきの黒人女性だ。隣のベッドの足元に立っている。
「ハンゲル?」
「そう。ハンゲル持ってたら貸してほしいんだけど」
「ハンゲルってなに?」
「ハンゲルよ。服をかける」
「ああ、ハンガーのこと」
 なんて強く「r」を発音するのだろう。アメリカ人だろうか。
 わたしは立ち上がり、壁際に置かれたロッカーを開けた。中には針金ハンガーが2本ぶら下がっている。1本をつかみ取って黒人女性に差しだした。
「アメリカから来たの?」
「そう。ニューヨークから、仕事を探しに」
 仕事を探してロンドンへ? イギリスは失業者があふれていて、ロンドンのオフィスビルは「貸室」の札ばかり目につくのに、どんな仕事にありつくつもりなのだろう。
 わたしはあらためて黒人女性を眺めた。さっき椅子の上に立っていた時も長身だと思ったが、180センチはありそうだ。ジーンズに包まれた脚は長く、身頃に細かいタックが施された純白のブラウスを着ている。
 そして彼女は別の白いブラウスをたたんでいるところだった。ベッドの上にはほかにも白いブラウスがたくさん積まれている。全部真っ白だ。タックやフリルに飾られた華やかな白いブラウスの数々。
 彼女のベッドとわたしのベッドの間にはチェストが置かれており、上から3番目の引き出しが半開きになっていた。そこにも純白のブラウスが入っているのが見える。
 わたしは彼女の顔へ視線を上げた。髪は白いのに、艶やかな肌には皺ひとつない。20代後半にも60代にも見えた。卵形の顔は小さく、八頭身、いや、九頭身か十頭身かもしれない。
 ニューヨークから来たのなら、モデルの仕事でもしていたのだろうか。それか、あまり売れてない舞台女優か。ウェスト・エンドでミュージカルのオーディションでも受けるつもりだろうか。
 彼女はわたしのぶしつけな視線に気づくふうもなく、朗らかに喋っている。
「――で、窓際のベッドはシェリー。彼女も仕事を探してて、今日は面接に行ってるの。彼女はイギリス人よ。ヨークシャーから来たんだって。帰ってきたら紹介してあげる」
 わたしはシェリーのベッドを見てから、さっきカップルがいたベッドへ目をやった。抱き合っていたふたりは姿を消している。その奥のベッドも空で、その向こうの窓際には洗面台があった。
 わたしはバッグからタオルとポーチを取って洗面台へ行った。
洗面台の鏡に映る顔はしなびて見えた。黒人女性の張りのある肌が羨ましく思える。
 顔を洗ってから窓の外に目をやると、まだ明るかった。日が暮れるまでにはずいぶん時間がありそうだ。
 夕食を買いに行くついでに、本屋でものぞいてこようか。
「この近所に本屋はある?」黒人女性に尋ねた。
 彼女は手元のブラウスから顔を上げ、わたしを見た。「あるよ。WHスミスがそこの通りをまっすぐ――」言いかけて、ふいに笑いだす。「あるよ、ある」笑いながら続けた。「WHスミスが鏡の中にある。あんたの前の鏡の中に。そのずっと奥のほうに。真正面に」
 彼女は透明な高い声で笑いつづけた。

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