スギ花粉症がいまほど一般的ではなかったころのお話。 「気のせいじゃないの?」「神経質だからそんな病気になるんじゃないの?」と言われていたころ。 くしゃみと鼻水が止まらず、英会話学校の小さな個室で生徒と一対一のプライベートレッスンを担当していたわたしは、市販の鼻炎薬を服用した。効果はてきめんで鼻水は止まったものの、こんどは唾が出なくなって喉がからからに渇いた。喉の奥が腫れ上がったように感じ、呼吸がしにくくて苦しくなるほどだった。 たまらず駆け込んだのが、京都の台所と言われる
1986年3月。ロンドン。 <空きあり> やっと見つけた。 ヴィクトリア駅の裏通りに並ぶホステルを端から一軒ずつ訪ねてきて、どこも満室だったが、これで今夜の寝場所は確保できた。巨大なショルダーバッグを肩にかけたわたしは、ホステルのドアを開けた。 暗い。 中に足を踏み入れながら目を凝らした。 「こんにちは」 男の声がした。見ると、玄関ホールの隅に古びた木製の机が置かれており、その向こうに若い男が座っている。 「こんにちは。2泊したいんだけど」 「いいよ」 促される
エレベーターの横に一枚の貼り紙。 “引っ越しの荷物を運んでいます。女性は階段を使ってください” “エレベーターのセイレーン”の餌食にならないための貼り紙だ。アドリア海に面したこの小国では、十八歳以上の見知らぬ男女が同じエレベーターに乗ることは、タブーとされている。エレベーターというものがこの国に初めて設置された19世紀末以降、見知らぬ女とエレベーターに乗り合わせた男が、それきり行方知れずになる事件が相次いだからだ。失踪するのはきまって成人男性だったことから、エレベーターには
「キャッ、キャッ、キャッ」 ヤツが来た。 また啼いている。私を挑発しているのだ。カーテンを開けてオレを視ろ、と。 その手に乗るものか。 私はベッドに横たわったまま目を固く閉じ、下腹に意識を下ろして、長く息を吐く。 そして深々と吸い込む。これ以上吸えないところまで吸い込んだら、また細く長く息を吐き、吐ききってから、ゆっくり吸い込む。いや、吸い込もうとする。 苦しい。肺に空気が入ってこない。 「キャッ、キャッ、キャッ」 息を吸わなくては。 ヤツにしてやられたくない