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大型重版御礼。そして父が他界しました

先日の東洋経済オンラインさんの影響で、Amazon総合5位、楽天総合1位と、お祭り状態だった、父(安藤英明先生)の作文ドリルが、大型重版しました。嬉しい!

このドリル、親子で一緒にやるのも楽しいんですよ。担当編集さんの今駒さんいわく、「大学病院の先生じゃなくて、町のお医者さんが作ったような本」です。

よかったら、ぜひお手に取ってみてください。
『小学校6年生までに必要な作文力が1冊でしっかり身につく本』です。

そして、そんな、祭りの最中ですが、2月4日、日付が変わってすぐ、父が旅立ちました。苦しむこともなく、そっと息を引き取ったそうです。その20時間前、私は病室を出て東京に戻ってきたのですが、最後、母からの電話で、父の耳元に話しかけることができました。


父がスキルス胃がんを宣告されたのは、昨年9月のことです。弟と北海道に飛んだときの写真が、このビールの写真です。父の教え子さんが経営する小料理屋に行ったら発売したばかりの父の本が置いてあり、記念撮影しました。


この次の日、家族みんなで病状の説明を受けました。治療をしなければ、あと数ヶ月という言葉を、父は静かに聞いていました。

病院を出るとき、父は
「残りの時間が限られているなら、テニスの本を書きたい。手伝ってくれないだろうか」
と言いました。すぐに、出版社の方にアポを取り、企画を通していただきました。
父は、すべての講演会や講習会を断り、引きこもって書き続けました。担当の編集者さん以外、誰にも病気のことを伝えず、執筆に専念しました。
亡くなる一週間前まで、父は兄弟にも病気のことを話しませんでした。
私は、休みができると北海道に行き、父に取材をしました。母は四六時中、記者である弟も体があくときは常に父の仕事をサポートし続けていました。

父の容態が急変する10時間くらい前まで、私は北海道で父に取材をしていました。回り込みのときの足運びとテークバックをイラストに起こすために、喧々諤々やっていたら、弟が、「ねえちゃんは、お父さんへの取材の詰めがキツすぎる」と、母にもらしていたそうです。


私はずっと父の教え子だったので、大学生になるまで父を「安藤先生」と呼んできました。私にとって父は、長い間テニスのコーチであり先生であり担当の著者さんでもあったので、だから、私にとって父が父でもあったこの時間は貴重なものでした。

この数ヶ月、父とは、一生分を超える会話をしました。ほとんどはテニスの話だったけれど、ときどき、学生時代の話や、母と出会ったときの話も取材と称して聞きました。

意識が朦朧とし始めたとき、父は指で何かを叩くような仕草をよくしていました。
コラムを書いてるの?と聞くと、父はうなずきました。「大丈夫、お父さんの原稿はいま私と英樹がまとめているからね。ちゃんと本にするから心配しないでね」と言ったら、父は、安心したように指から力を抜きました。 

先日爆発していた東洋経済オンラインさんの記事は、父の生前最後の原稿になります。

だいぶ前に父に取材をして口述筆記で書き上げていたのですが、一瞬意識がはっきり戻ったときに、父に赤字を入れてもらって大急ぎで納品しました。その文章がたくさんの人に読んでもらえてよかった。吉川さん、ありがとうございました。

父の訃報のあと、すぐに重版の連絡が届きました。
人は死んでも、思想は残るのだなと感じました。

時間の限られた著者さんの原稿を預かって、吐くほどプレッシャーがかかっていたとき、相談に乗ってくださったのが、さとなおさんと婦長でした。二人に父の他界を報告をしたところ、さとなおさんから、「人は死なない」という言葉をもらいました。
「人は死なない。死なない生き方がある」

これは、以前私が書いた、鈴木三枝子さんの評伝、『道を継ぐ』に、さとなおさんが寄せてくださった帯の言葉です。
父がスキルス胃がんと言われたとき、最初に思ったのは鈴木三枝子さんのことでした。

過去に私はスキルス胃がんの疑いを指摘されたことがあります。その頃は、毎週のように胃カメラをのんで経過観察していました。
結局スキルスではなかったと言われたとき、その病気でお亡くなりになった鈴木さんの本を書きたいと思い、スキルスのことばかり調べていました。だから、私が父に病気を引き寄せたのではないかと考えました。

その話を母にしたら「お父さん、友美のことが大好きだったからねえ」と言いました。きっと私と同じことを想像したんだと思う。私の胃からなぜか病気が消えたのは、父がかわりになってくれたからかもしれないって。

父に、伝えたくてこれまで恥ずかしくて伝えられなかったことを3つ。まだ意識があるときに伝えました。
ひとつは、父を愛していること。
ひとつは、父の子どもで幸せだったということ。
ひとつは、父が教えたたくさんの教え子や選手の中でも、わたしは、きっと父の教えを最も強く身体に刻んだ人間の一人だと思うこと。

「英樹と私は、お父さんの最高傑作だと思うんだよねえ」と、父に伝えたら「その謙虚さが足りないところが、友美のよくないところだ」と言われました。

だけど、やっぱりそう思うから、私は父からもらった命を(ひょっとしたら2回もらったかもしれない命を)父のように使って生きたい。

お葬式には、全国から教え子さんやテニス部の顧問の先生たちが駆けつけてくださいました。初七日まで家にいたけれど、弔問にいらしてくださる人がひっきりなしで、みんな祭壇の前でいろんな思い出を話してくださいました。

小学校の先生が、こんなにいろんな人の心の中に生きているのって、本当にすごいことだなと思ったのですが、それ以上にすごいと思ったのは、母が、そうやってきてくださった人たちの顔と名前をほとんど把握していたこと。

父は母に、毎日のように、今日、クラスでこんなことがあった。今日、テニス部の○○さんがこんなボールを打てるようになった。そんな話をしていました。
学生時代、私が帰省したときも、最初は私に構ってくれるのだけれど、30分もすれば夫婦の話題は教え子のことばかり。

私に子どもが生まれて、母が私の家にヘルプにきてくれたときも、夜になると必ず父から電話がかかってきた。もしくは母が電話をかけていて、長々とおしゃべりをする、そんな夫婦でした。弔問に来てくださる教え子さんたちも、みんな母のことを知っていて、なんか、それがすごいなあと思ったのでした。

ずっとずっと仲良しだった。

亡くなる直前、母は父に「ずっとずっと大切にしてくれてありがとう」と話をしていました。二人きりにしてあげようと思って、私は、そっと病室を出ました。


告別式が終わって、霊柩車が出発するとき、誰かが「安藤先生ありがとう!」と大きな声で叫んだのが聞こえました。
火葬場に行く前に、故人にとって思い出深い場所をまわりますよといってくださったので、テニスコートに寄ってもらったんだけれど、テニスコートは完全に雪に埋まってた。

一年の半分、コートが使えないようなこの土地で、16回もの全国優勝に導いた父のことを改めてすごい人だなあと感じたのでした。

これを書いている最中に、最後の本を進めていたベースボールマガジン社さんから、ぜひ、本を仕上げて発売させてくださいというメールをいただきました。ありがたいことです。
落ち着いたら、父が最後の時間をすべて注ぎ込んで取り組んだ本を、みなさんの力を借りながら仕上げたいと思っています。

亡くなってからも、こんなふうに父とつながりを持てていることを、ありがたく思っています。

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