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オンライン時代の取材のしかたと体の重ね方

エロい話では、ない。

緊急事態宣言が出る少し前くらいから、ほぼ全ての取材が、オンラインに切り替わっている。ほぼ、と書いたけど、よく考えたらひとつの漏れもなく、100%だった。
宣言が解除されてからも、今のところ、取材はすべてオンラインで進んでいる。

ライター仲間の間では
「zoom取材、意外と問題ないね」
「次に出る本は、オールリモートで作った」
「出張取材って、いったいなんだったんだろう……」
なんて話題でもちきり。
このままオンライン取材だけでいけるなら、東京にいる必要もないよね。家賃の安いところに引っ越そうかな、なんて話もよく聞く。

でも、本当にそうだろうか。

私自身もこの3ヶ月で、150人以上の人に取材をした。
そんな人数に取材できたのも、すべてzoomと電話、そしてメールなどで完結したからだ。正直、不便は一度も感じなかった。むしろ、外に出てちょろちょろしないぶん、時間が分断されず、仕事がはかどった。

このオンライン取材、今後のデフォルトになっていくと思う。
今後は「それって、直接会う必要、ありますっけ?」という会話が増えるだろう。
リモートがデフォルトで、リアルに会うのは特別な場合。
この流れは不可逆だろう。

というのを大前提として、なんだけど、

では

①オンライン取材で、私たちは”本当に”取材できているのだろうか
②リアルでコミュニケーションしていた時に比べて、抜け落ちている情報はどれくらいだろう
③そして、このオンライン取材時代に、ライターが強化すべき能力は何だろう

について、毎日考えている。

これはもうずっと考え続けるのだろうと思うけれど、いったん、今日までに考えたことを残しておこうと思う。

まず、

①オンライン取材で、私たちは”本当に”取材できているのだろうか
②リアルでコミュニケーションしていた時に比べて、抜け落ちている情報はどれくらいだろう

について、自分自身のオンラインとオフラインの取材体験を比べながら、考えたい。

・・・・・・・・・・

ライターさんにはいろんなタイプがいると思うけれど、私は、取材相手にかなり体を重ねにいくタイプのライターだと思う。

うまく言語化できるかどうかあやしいのだけれど、私の場合

1)インタビューさせてもらった人の視座の位置に自分の目の玉を合わせて
2)その人が見ている視点の先に見えている景色を見て追体験して(した気持ちになって)
3)その景色を脳裏に浮かべながら文字にする

というような感覚で文章を書いている。

映像が立ち上がっていて、それをきょろきょろ見ながら書いている、という感じです。

取材直後に書く場合は、そのビビッドな映像が消えないうちに書いてしまう。
後日書く場合(こちらのほうが多い)、その映像を再び立ち上げるトリガーはいつも音声で、いったん音声を体に取り込んでから、一気に書き始める。感覚でいうと、その人の声で体を満タンにして、風船を極限までふくらませて、それをパンっと割って一気にぶわっと吐き出す。そんな感じです。

私の場合、テープ起こしを読むことでは、その映像は立ち上がってこない。
また、音声を聞きながら同時にテープ起こしを読んだ場合も、映像は立ち上がらない。
かなり集中して音声「のみ」を聞くことで、その取材時の時間にもう一回戻って、そこからもう一回体を重ねにいく、というような感覚だ。
あと、同時に2人の体には重ならない。だから、複数の本を同時に並行して書くことはできない。その時期は体を全部その人に預ける、という感じじゃないと、体が混乱する。

と、なると、オンラインの取材でも、音声さえちゃんと確保できれば、何ら執筆には問題がないように思える。

が、しかし、なんだよね。
この数ヶ月やってみて思ったのだけれど、オンラインで取材した場合、体がうまく重ならない。もう少し抽象的に言うと、見える景色が、度数のあってないコンタクトレンズみたいな感じで、ぼやっとする。クリアに立ち上がってこない。
その理由はなんだろうと、ずっと考えていた。

あっ、と思ったのは、先日、あるAIの権威の先生のお話を聞いていた時のことだ。
その先生は、「人間は、自分で思っている以上にノンバーバル(非言語)な情報を収集している」とおっしゃっていた。
また、先日取材させてもらった心療内科の先生は「触覚と嗅覚が共有できないと、コミュニケーションの質は著しく落ちる」とおっしゃっていた。

なるほど。
そういえば、取材時の音声を聞くといつも、その時体験した「その場の空気」のようなものが一緒に立ち上がってくる。

その人の表情、目線の動き、手の動き、肌の高揚、その時流れた汗の形、空間にただよったにおい……。

こういった、ノンバーバルな手がかりが、オンライン取材したときには、すっぽり抜け落ちる。その結果、私の場合、取材相手の方とうまく身体が重ならない。

一見、何の問題もなかったように思ったオンライン取材なのだけれど、実は、オフラインで取材しているときに受け取っている情報(多くは身体性に基く情報)が、かなり抜け落ちていることに気づく。

文字にしてしまえば、おなじ「おはようございます」でも、「大好きです」でも、「感動しました」でも、
その言葉の温度や湿度や粘度みたいなものは、同じ場にいないと、受け取りきれない。
そして、これは私の個人的主観なのだけれど、ライターの仕事は、そういったノンバーバルな情報をも取り込んで、バーバルに翻訳することだと、私は思っている。
そうじゃなければ、テープ起こしの再構成(編集)で十分だし、ログミーでよいし、ぶっちゃけそれはもう、AIの仕事になるだろう。

言葉になっていないことを言葉にすることに、わざわざライター(人間)を使うひとつの価値がある。
オンラインでその価値が失われるのだとしたら、オンライン時代の取材と原稿書きは、AIとの競争力において人間は不利だ。

もう少し考えを進めたい。

極端な話、これからすべての取材が、オンラインに切り替わるのだとしたら、わたしは多分、ライターを辞めると思う。
それは、対面取材じゃないと、さみしいようとか、そういうことではない。わたし(人間)じゃなきゃできないことが、かなり目減りすると思うからだ。
とくに、私のような書き方をするライターにとって、オンラインだけで完結する取材と原稿書きは、これまでの取材&原稿書きとはだいぶ色合いの違う作業になると感じる。

・・・・・・・・・・・・・・

と、思ったことをまず書いたところで

③このオンライン取材時代に、ライターが強化すべき能力は何だろう

についても考えてみたい。
これについてもまだ思考途中なのだけれど、暫定解を先にいうと

もしオンライン取材がこのまま進んでいくいとしたら、ライターにとってもっとも重要なスキルはおそらく、「何を書くか」&「どう書くか」ではなく、「何を問うか」になるだろうと思う。

今現在も私は、ライターの仕事の8割〜9割は「聞く(聞き出す)仕事」だと思っている。けれども、オンライン取材時代には、より一層、「何を問うか」がぶっちぎり重要になると思うのだ。これは、さっき言った「書くことのほうでは、人間の優位性を保ちにくくなるから」に由来する。

書くことでもし、差別化することが難しいのだとしたら、
問うことのほうに、活路がある気がしている。

1996年に書かれた小説『すべてがFになる』(森博嗣さん)の冒頭にこんなシーンがある。

ある天才科学者のもとを訪れた主人公が、いろいろインタビューをするのだが、途中ふと「貴女は誰ですか?」という質問を思いつき、それを科学者に尋ねるというシーンだ。

それに対して、科学者は

「それが、人間の思考の切れ味というものなの。貴女、今、急にそれを思いついたでしょう? 素晴らしいわ……。それが機械にはできません」

と答える。

この「機械にはできない」ことを、問い続けなくてはならない。
それをすることが、これからのライターなんじゃないかな。

そんなことを、今、思っています。まだ、考えてる途中だから、異論反論お待ちしております。


【作家の五百田さんと「書くこと」について対談させていただきました。よろしければぜひご覧ください】

水面下のバタ足を、これでもかくらい、お見せしている恥ずかしい対談です。


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