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書くことのほとんどは「視る」ことなんじゃないかと思う

先日あるライターさんと話をした。

その人は
「どんなに身近な人でも、私はその人の100パーセントを知っているわけじゃないと思うことが重要だなって。だから、わかったつもりになって、『あの人って○○な人だよね』と、自分の目線で評価をしないようにするのが大事だと思う」
と、言っていた。

確かに、その通りだと思う。

でも、と、一方で思う。

100パーセントその人のことを分かるなんてことはありえないという前提のもとで、それでも、私の目で見たことを伝えなくてはいけないのが、ライターという職業だなあとも思ったんですよね。

その人のどこを見たか、という視点
その人をどこから見たか、という視座

その組み合わせの差異が、文章の差異になると私は思っている。

学生時代の私が、評伝やインタビュー原稿に対して、おぼろげに思っていたのは、左側の図のようなものだった。

つまり、可能な限りたくさんのエピソードを集め、多くの接線を引けば引くほど、Aさんが円として浮かび上がってくるのではないかという感じ。

でも、今はちょっと違うことを考えていて、私が見たAさんと、Bさんが見たAさんは全然違っているのが当たり前だと思ってる。右側の図のような感じ。
どんなに頑張っても、私はAさんの一部しか見えないし、だからこそ、私が書くものにおいては私の視点(どこを見るか)と視座(どこから見るか)に依るしかないということ。
私はこう理解した(いと思った)という範囲において精一杯に書くしかなくて、
それがライターという職業なのかもしれないなあと、思うわけです。


書くことのほとんどは「視る」ことなのではないかと思います。


そして、この視点(どこを見るか)と視座(どこから見るか)のどちらか(もしくは両方)に、オリジナリティがあると、その文章はオリジナリティの高いものになるのではないかなあとも思っています。


もう少し言うと、私が私でありながら、私の視座と、Bさん的な視座を持つことができたら、その人がより立体的に浮かび上がってくるのかなあとも思ったりしています。なので、いつも尻軽くいたいな、と思うんですよね。

と、2018年の時点で暫定解としていることを書き残しました。いろいろ考えるきっかけをくれたライターの友人に感謝。

[最近のさとゆみ]
喘息からの胸部痛という秋のルーティンがやっと落ち着きました(多分)
たまりまくった原稿をなんとかせねば……

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